2010年09月14日

黒の法話

学生の時の夏休み。ぼくの友達の遠い親戚に寺の住職だという人がいた。かなりの高齢で境内に繁茂した雑草を刈るのに難儀していたということだった。そこでぼくの友達に草刈りを手伝ってくれと白羽の矢が立ったらしいのだが、あいにく友達はすでに夏休み中のアルバイトが決まっていて行けなくて、ぼくになんとかならないかということで話が回ってきた。「なにちょっと草刈りして、煮炊きを手伝って、あとは文庫本でも持ちながらその辺の山の中を散策してればいいさ。おまえ最近仏教の本なんか読んで興味があるんだろう。法話みたいなものを聞かせてくれるよう頼んでやるよ。」という話だった。どうせぐうたらと何もせずに無為に過ごすよりは、体を動かして法話でも聞ければましかもしれないなと思ってその話に乗ることにした。
“法話”以外の寺での時間は友達の話の通りだった。適当に寺の仕事の手伝いをして、後は山の中を散策して。きままな時間が多かった。“法話”は4時から6時までの2時間、その寺にいた毎朝行われた。
“法話”の一日目。開口一番住職はこう言った。「きみは仏教に興味を持っていて法話を聞きたいということで承っています。でも私は法話はできません。その代わりにきみにこれから毎朝“体験”をしていただきます。」そういうことだった。「ここに仏像があります。この仏像を手本にして、きみに仏像を彫っていただきます。」そう言うと住職は直径10センチほどの丸太と大ぶりなノミを差し出した。そして手本だという仏像を指差した。こちらは直径30センチはありそうな丸太をナタか何かでガンガンガンと切り出したような仏像が立っていた。さてそれが本当に円空の作かどうか分からないが、今なら円空の作に似た仏像だと一言で言える像だった。それきり住職はその仏像の方に向いて座禅を組み瞑想にふける風合いだった。
“法話”の二日目。「さて像は彫れましたかな。なるほど。ふむふむ。」。こちらを彫ればあちらが彫りすぎだったというように、慣れぬ手つきで彫った仏像は失敗を矯正するために直径3センチくらいになっていて、しかも不格好で未完成。なんとか顔に目鼻があり、肩がここだと分かるような代物だった。住職は像の出来には何も触れずにこう言った「それではこの像をこの桶の染料につけて、まんべんなく表面に行き渡らせたら桶から出してください。乾いたようならまた桶につけて。それを繰り返してください。」それきりまた住職は“円空作”の仏像の方に向いて座禅を組み瞑想にふける風合いになった。
“法話”の三日目。「なるほど。藍色に染まりましたね。ふむふむ。それではこの像をこの朱で塗ってください。乾いては塗り乾いては塗り。一面を朱にするのです。」それきりまた住職は瞑想にふける風合いになった。
“法話”の四日目。「なるほど。一面朱色ですね。これは墨をにかわで溶いたものです。それではこの像を一面墨で塗ってください。」それきりまた住職は瞑想にふける風合いになった。
“法話”の五日目。「なるほど。墨で塗りつぶされて真黒です。」そういうと住職は自分と僕との間にその像を置いた。「どうか楽な格好で。この像をじっと見つめるのです。」それきり住職は僕の作った像を見つめて座禅を組み瞑想にふける風合いになった。夏のことで、外はもう明るくなっていた。しかし庫裡のなかには日差しが届かず明かりもなかった。ほの暗い庫裡に置かれた僕の像。ときにその薄暗がりに吸い込まれ、ときにその薄暗がりに抗しているようにも見えた。「黒。の語るもの・・・。なに。」そんなことが心に浮かんできた瞬間、「かぁつ。その像を後ろに投げよ。きみがこの山門をくぐったときに持っていたものだけをまとめて帰るがよい。手伝い御苦労。楽しい体験じゃったぞい。」住職は叫んだ。それきり住職は唖然として荷物をまとめる僕を背に再び瞑想にふける風合いになった。

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2010年09月12日

懐疑の視点

矛盾や不条理をぶち壊したい。そこが疑いながら見るということの出発点だった。しかし、それを進めていくと“みる”者、“みられる”者との境界が曖昧になってくる。そこでは疑うことと信じること。緊張することと弛緩すること。それらが混然となって存在している。まさに矛盾や不条理の真っただ中に置かれていることに気づく。矛盾とか不条理とか、そういう言葉を使うには案外居心地がいいのではあるが。

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2010年09月06日

お預かりいたします

商売で販売代金を受け取って、「お預かりいたします。」と発する。商売の金なのだから自分のポケットに入れることはできない。でも、お金が回りまわっているのだなということを肌で感じる。これが実に清々しい。いっそのこと何でも「お預かりいたします。」ということにしてみると、人生が非常に清々しいものになると思う。

プレゼントをもらった。    「お預かりいたします。」
給料をもらった。       「お預かりいたします。」
注文していたものが届いた。  「お預かりいたします。」
渡した方は、面食らうかな。

就職した。          「お預かりいたします。」
子供が生まれた。       「お預かりいたします。」
自分がいる。         「お預かりいたします。」
さて、自分を預かるとはどういうことになるのかな。自分を猫ババするとはどういうことになるのかな。

posted by はまべせいや at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 黒の部屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月31日

故郷はどこ

自分という森のなかに棲む虫とはなにか。境界は思っている以上に曖昧なものだ―忘れた感覚。そういうことを想起させること、もの。ぼくにとっての故郷のエッセンスというべきもの。それは生まれ育った土地に行っても出会えないかもしれないし、今歩いている街中で出会えるかもしれないし。そういう類いのものだ。ここに行けば必ず故郷のエッセンスに出会えるという場所を、ぼくは特定できない。

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2010年08月29日

滑走路

赤トンボは群れになっていてもぶつかることはなく、気持ちよさそうに飛んでいる。あたかもそれぞれの極楽を謳歌しているかのように。
居酒屋のカウンター席に座る。ママのお酌に始まり、天気の話、近況報告。次第にカウンターが埋まってきて、つまみも出てきて、お通しもあらかたなくなり。さて二、三杯目あたりになると、あいつどうしたから、ニュースの話題、趣味の話題など、ママやバイトの子なども混ざって、カウンターに話の花が咲く。杯を重ねるうちにカラオケが始まり、艶話なども出てきたりして、居酒屋の夜は更けてゆく。
そのじいさんは、いつも自分のボトルを見つめてひっそりとほほ笑んでいる。あたかも極楽を謳歌しているかのように。ぼくはその笑顔を見るのが好きだ。ほかのお客さんに話しかけられた時の笑顔がまたいい。ぼくはそのじいさんとまともに話したことはないが、そのじいさんの横で飲んでいると羽が生えた気分になる。
さて、居酒屋の風景から無駄なものをそぎ落としてゆく。最後に残るのは、なに。

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2010年08月26日

実りへ

これはありきたりなことと、どれだけのことを実行せずにただ埃のように堆積させてきたか。新しくて気の利いた方法を探すよりは、そのあたりを点検する方が実りが多いはずである。

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2010年08月23日

ありきたりな過程

ありきたりなことを積み上げるから、ありきたりでないところに近づくのであって、ありきたりでないことを求めても、それでは求めるだけで終わる。実行するとはそういうことだ。
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2010年08月21日

風のおと

ジャーでは重すぎる。シャーでは単純すぎる。ルルーではきらめく感じが足りない。いったいぼくは・・・。先ほどからそんなことだけが、ぐるぐると廻っている。そういえば自転車が惰性の乗り物だとは、だれから聞いたのだっけ。あまりにも平坦で。あまりにも真っ直ぐで。ぼくが起こした風だけに包まれているものだから。たとえば、ビー玉をかき混ぜる音。たとえば、トンボの飛ぶ羽の音。たとえば、・・・。
ベートーベンは・・・、
作曲をした。
聴覚を失って、なお。
どこに、あったか。どこから、きたか。
リールとはよく言ったものだ。りるりるりるりる。やっぱり違う。もう着いちゃった。その先の岸辺まで行きたかった、のに。



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2010年08月18日

お手伝い

中学三年生の時の国語の先生。「きみたちも受験生になって、ほかの教科の先生たちは受験のためのお手伝いをしているようだけど、国語もやって欲しいか。」そうみんなに聞いた。どんなことをやるのだろうと思ったけど、受験のためならという空気がクラスにあって、先生に“お手伝い”をしてもらうことになった。先生がみんなに与えた課題は、毎日の新聞のコラムを切り抜いて、それをノートに貼って、要約と感想・意見を書いて提出し、先生が点検するというものだった。そんなことで受験に効果があるのか疑問があったということだけ憶えていて、いつごろからいつごろまで続いたかすら憶えていない。でも今では、これは国語の受験のみならず、もっと幅広く実りをもたらものだと思っている。受験の国語でいい点数を取るためだけでなく、受験が終わってもある程度の期間、若いうちに続けていればもっと“鍛錬”されたものをと、少し悔いが残る。
心がけ次第でいつからでも始められ、ずっと続けることができる。そして鍛錬のためになる。そういう方法を与えるということが、ほんとうのお手伝いということなのかも知れない。

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2010年08月15日

小春の予感

そよ風にほころぶ―影
まぶしくて
何もかもにほほ笑んでいた
春の記憶
気まぐれな風に静止したり壊れたり
凝視して、見失って
定めのように踊っていた
夏の記憶
しみ渡る風に透きとおる
いとおしみ
ひとしずくがすべてと知った
秋のキオク
風絶えて揺らぐことなく
引き込まれて
ぜんたい、肌に感じる
もう木枯らしが吹こうとも
決して失うことのない
小春の予感
凍てつくときを静かに見守る

posted by はまべせいや at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 疑問のウラガワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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