2009年02月07日

事件と芸術

事件とはどういうことか。たとえば「奈良までの行き方」というマニュアルがあったとして、それを読めと言われる。読んでみてはあなるほどはと思うだろうがそれだけのことだ。たまたま奈良に行きたいとか、どこにでも出かけてみたいだとか。そのように思っていなければ、何らの心理的影響も行動への影響も及ぼさないだろう。これは事件とは呼べない。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句を味わえ。そう言われたらどうか。まず、その句に盛り込まれているものに関する情報を自分の知識から洗い出す。柿の色、味、鐘の音、法隆寺のこと、法隆寺のある古都の町並み、歴史・・・。そしてそれらを、情報だけで補えないものでつなげてゆく。季節は秋か、鐘が鳴るのはきっと夕暮れ時だろう、つるべ落としの秋の夕暮れは柿の色にも似ているだろうか、柿とともに暮色を食らっているのかもしれない、あるいはほんとうは柿などないかも知れぬ、はるか昔から鳴り続けていただろう鐘の音、耳を傾ければ雑踏の音が消えて静かに心に響き渡る、時空を超えたひととき、そこに宇宙がある。と、そんなことを考える。あたかも古都の秋の夕暮れに佇んだ感覚を呼び起こさせる。別な場所にいるはずの自分が古都に立ち、さらにその自分が宇宙を感じている。二重の意味で時空を超えている。これは大いなる心理的な影響だろう。そして実際に法隆寺のある古都奈良へ行ってみたいと思うようになるかもしれない。こうなったら、これはひとつの事件といっていいだろう。このような事件を起こす要因を含んだもの(中学生の私にとってこの句は事件ではなかった、事件は起こるべく人に起きる)。そうしたものを芸術というのだろう。芸術と名がつけられているもののなかにも、マニュアルに近いものからこの句のようなものまで、幅広くあるように思う。
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2009年01月24日

「真実」と宿命

彼が掴んだ「真実」。そのものは体に染み込む。そして自覚をもって、あるいは無自覚のうちに彼の行動の規範となる。「真実」は彼にそのような作用を起こすはずである。たとえば生きるということを家族愛に還元させたり、天下国家への奉仕に還元させたり、個人の美的享楽に還元させたり、あるいは無価値であると考えたり。彼は何かそういった「真実」を掴んでいるはずだろう。そうしたものを掴んでいるなら、それは彼の行動をある一定の範囲にもっていくはずである。そのように彼の行動に影響するということにおいて、彼が掴んだ「真実」は彼にとっての環境と言って差し支えないだろう。環境によって行動が限定される。そして限定された行動によって彼がつくられる。つくられた彼は、彼にとっての宿命だ。そうした宿命を背負った彼は、彼が掴んだ(更新された)「真実」によって次の行動を起こす。彼のなかに「真実」と宿命が環境としてある。そしてその環境は円運動(あるいは螺旋運動)のようにして、常に巡り巡ってゆく。「真実」と宿命はそうした意味で、同義と言って差し支えないだろう。
私は「存在の謎」という「真実」に宿命づけられて巡っている。
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2009年01月10日

一生付き合う「自分」とは

今サラリーマンをやっている私。何かが少し変わっていたら、小役人にでもなってたか。あるいは教師をやっていたかも知れぬ。いやいや中学を卒業後そのままどこかで奉公するのも一考だったかなどと、後で考えたこともある。なにやらバブルで一山当てて浮かれ暮らすも束の間で、食うや食わずでさ迷っていることもありえる話。果たして今現在意識があるかどうかというのも不確実。意識。そう、意識。もし仮にどの可能性をたどっても今現在意識があったとして。その意識というのはサラリーマンをやっていようが、小役人をやっていようが、教師をやっていようが、奉公していようが、食うや食わずだろうが―――自分の境遇を省みて他の可能性と比べている―――そうした意識というのは、たったひとつの意識である。たとえば、どんな境遇であろうと夕日を美しいと感じているだろうし、温かい湯に浸かって気持が和らいでいるだろうはずの意識。自分をやっている自分を冷然と観ている意識。どういう自分をやっていようが、その意識を「自分」とよぶこと以外は決してできないはずである。そうした「自分」とはどんな境遇をたどろうと、一生付き合うのである。
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2008年12月27日

批評と自意識

批評というのは対象物のことを自分抜きに語るということではなく、対象物と自分との間に起きた相互作用を語ることだ。だから純粋に対象物のことだけを語った批評というものは存在せず、対象物と自分とは切り離せないものとして語った批評というものだけが存在する。たとえば「直径20センチほどの丸い形をした真っ白な陶磁器が光を受けて輝いていた。」という式の表現は批評ではない。たとえば「それを見た瞬間私は目が眩んだ。それは晴れた日のゲレンデのような真っ白い輝きのためだけでなく、手の平が思わずだれかを抱き寄せるときのようなカーブを描いた、その丸い形にあったのかもしれない。なぜそんなにやさしい手つきができたのか・・・、なぜそれが眩しいと感じたのか・・・。」という式の表現を批評というべきだろう。批評の過程で、人は自分の意識を自覚する。
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2008年12月13日

評する態度

誰かが考え出した尺度を使って評することは簡単なことだ。お勉強をすればいいのである。
それを使う訓練をすればいのである。多くの人はそれで飽き足りるはずがなく、自分の尺度で評するよう試みる。しかしそれでも多くの人は結局別の誰かの考え出した尺度に知らず知らずのうちに戻っている。自分が考えた言葉で、「老いるということになぜ抵抗するのか」「なぜ健康であることが良いことなのか」「なぜ孤独を嫌うのか」というようなことを説明できる人がどれくらいいるのだろうか。「若い」「健康である」「仲間がいる」これらのことを当たり前の価値としている評が多いように私には感じられる。当たり前とされる価値の意味を問うて、自分自身で考えたその先に自分の尺度が待っている。そうして自分の尺度を得た人は、自分の尺度たる「自分」ということに驚愕するに違いない。疑うべきを遠ざけて到達した「自分」とはそれほどに深淵だ。しかし、そうして驚愕した人もそこで立ち止まっていては、誰かが考え出した尺度を使って評することと同じである。昨日の自分の尺度は誰かが考え出した尺度と同じことである。自分のつくった「カテドラル」に安住すること、自分が掘った洞窟で惰眠を貪ることはたやすい。洞窟に外界の空気を入れる態度が必要だ。新たに疑い、考えることが必要だ。ほんとうに難しいのは、「自分」とそこで起こる外界との「化学反応」に驚愕しつつ、自分の尺度を見つめなおしながら評するという態度である。
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2008年11月29日

酔わせる言葉

たとえば「エロス」という言葉は端的だ。「精神の深い部分での共鳴」とでもいった意味に捉えることもできるだろう。「本能に任せた肉体的な交わり」とでもいった意味で捉えることもできるだろう。言葉はある意味で極端から極端へ、二面性あるいは多面性をもってそれを聞く者に捉えられる。「ぼくはきみと交わる」と端的にエロスをあらわす“述語”を言ったとき、そこからは崇高と思われる事柄を想起させることもできるし、劣悪と思われる事柄を想起させることもできる。さらに、そうしたことを“匂わせる”言葉が重ねられれば、そこからはさまざまな臭気が漂ってくるはずである。「エロス」という言葉を一面のみから捉えた上で、ただ一言のもとに、その言葉の群れを単に「エロス」と言うのは不正確であると感じるはずである。極論すればプラトン全集からエロ小説を想起することもできるし、エロ小説からプラトン全集を想起することもできる。そうなれば崇高とはどういうことか。劣悪とはどういうことか。それらを分けることにどういう意味があるのか。そのような疑問すら湧いてくる。複雑な香りを含んだ酒を芳醇な酒というが、さまざまな臭気が漂ってくる言葉は豊かな言葉というべきだ。そうした言葉は銘酒のごとき力をもっている。
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2008年11月15日

正当な批評とは

客観性を装って世に価値と「思われている」ものの欠点をことさらに突いておとしめる。そうすることによって相対的に自分の価値を上げようと目論む。これは正当な批評とは対極の行為と言える。自然に消滅するはずのものを、悪意を持って消滅させようという意図を持って発言した批評。そうした批評は批評されたものよりも、もっと早いうちに消滅することだろう。
行きかう人々に踏み躙られ、蹴られて。そのようにして転がっている路傍の石のようなもの。そうしたもののなかに一定の価値を見出して、それに感動する。そして、その感動の原因を突き止めるべく言葉にしようと苦心すること。こうした行為こそ本当に正当な批評と言うべきものである。
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2008年11月01日

退屈人生

たとえば誰かにつねられて。痛いと思っている自分を本当の自分だと思っている人は分かっているとは言えない。痛いと思っているのはなぜなのか誰なのか。そう考える人は、より分かってということに近いと言える。疑いきることのできないものは何か?それをどこまでも追いかけると必ずそういうことになる。謎と驚きに魅入られた人であると言えるだろう。そうした人は次々やってくる謎と驚きに退屈している時間を知らない。そして、そうした謎と驚きに比べれば、世紀の瞬間、衝撃の事件、悪夢の社会現象など退屈極まりない茶番なのである。
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2008年10月18日

ぼくの宿命

どんな境遇に生まれつこうとも、どんな才能やハンデを持って生まれようとも、どんな出会いや別れがあろうとも。運命という言葉で片付けられるそれらのことは、宿命の重みの前で一瞬にして色を失う。
“ぼく”は“ぼく”でしかないのだ。
たとえ僕が一国を治める王になろうとも、僕が社会から忘れ去られて赤貧に喘ごうとも。“ぼく”が“ぼく”を求めるということを止めることはできない。宿命とはそういうことだ。そのことに“ほんとうに”気付くか気付かないか。それも宿命と言っていいかもしれない。
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