2009年11月28日

摩滅のとき

隙間をただ覗き続けるということは、簡単なようでいてなかなか難しいことだ。人はその隙間があるということに、耐えることができない。だから他のところを見ながらたまにチラッと隙間を遠めに見たり、普段は他の場所にいながら通り抜けざまに隙間を覗き込んだり、そうするように仕方がない。その隙間を埋めるためのステップを具体的な形で設計し、それを実行できる気概があるときに、はじめて人は隙間を覗き続けることができる。ただ、隙間に見入られるということがままある。見入られたが最後、その隙間の深淵を凝視せざるを得なくなる。深淵に持っていかれそうなものをなんとか掴もうと手を伸ばすが掴めない。この、かなりの忍耐に人は摩滅してゆく。
さて、ここで疑問がひとつ。隙間に見入られるとはどういうことか?見入られる人には、特別な資質というようなものがあるのかどうか?

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2009年11月14日

現実は努力?

頭を叩かれて痛いと思う自分とか、欲求が満たされなくて良からぬことを思いついたり、立て直そうと思ったりする自分とか。そういう自分を現実のものとして捉えるならば、『困難は現実の同義語であり、現実は努力の同義語である』という言葉は、真実味を帯びてくる。
だが痛いと思ったり、良からぬことを思いついたり、立て直そうと思ったり、そうした自分を疑って疑い尽くして考えていったとき、“自由は現実の同義語であり、現実は思考の同義語である”とでもいうようなことに思い当たる。
思考するということによって垂直に離陸して、千メートル、二千メートルはおろか、何光年、何億光年と上昇することができるのだ。なんという自由だろうか。
しかしまた一方で、この自由を不自由に縛り付けていなければいけないという現実にも直面する。やはり現実はある意味で努力でもあるというところに帰り着く。
全うするとは、そのあたりの配合具合のことを言うのではなかろうか。

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2009年10月31日

言葉で理解する人とは

たとえば「神はきみと切り離しては存在しない。」そんなことを唐突に言ったとする。どんな答えが返ってくるか?「なにを馬鹿なことを言っているんだ。」「僕は特別じゃない。」「だれにでもそういうことを言うとしたら汎神論だね。」「自分自身に向かっても言うのだとしたら、君は自分が神だとでも言うのかね。」「神を冒涜するものじゃないかね。」「神なんているわけないじゃないか。」「そんな宗教めいた考えは弱い人間の逃げ場所だ。」・・・等々。十中八九は否定するような答えが返ってくることが予想される。
このことを言葉で説明して理解してもらうことは限りなく不可能に近いであろうことも予想される。ほんとうの宗教観とは“個人的な思考”に基づくものであると。このことに思いが至らない人にはいくら言葉を重ねても理解してもらえないだろう。一言聞いて「ああ、なるほどそうだね。」という人はわたしと宗教観について共有する人だろう。また先の言葉に続いて、わたしがその人の考えを引き出すようにして話を重ねて「分かったよ。」という人は、やはりはじめから私と宗教観についてある程度共有していた人なのである。
ほんとうに大切なことは、すべてを他人に言葉で説明することはできない。個人個人で自らたどり着くしかないのである。説明で理解する人は、自ら考えた人なのである。

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2009年10月17日

告白

告白するという行為はある種愚直な思いがあるからするのだろう。ある種感動が含まれるのは事実であるが、それを聞く者ははらはらどきどきし、驚き呆れ、羞恥心すら感じさせることがある。聞く者にこうした影響を与えない告白というのは、愚直な思いというところからは外れている。
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2009年10月03日

切れ味のよい理論

切れ味のよい理論というものは、いわば両刃の剣だ。他人を切ったその剣で、自分も必ず切り返される。そうした理論は、“自分”を“俯瞰”するとき以外に使うと大怪我をする。

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2009年09月19日

「恥」の観念は若いころとそう変わらないつもりだ。だが噂に関する観念は全く変わったように思う。噂は言葉の埃のようなものだと思うが、若いころは自分の美意識を守り通すために常に叩き落とすものだった。今では違う。「へぇ、見る人が見るとこうなのだ」と、喜んで賞味する。“ここ”にいる自分とは違う自分が一人歩きして、まことしやかに物語が口から口へ伝えられていることは想像するに面白い。モノフォニーよりポリフォニーの方が味わい深い。また、その噂が的を得たものであれば糧ともなろうし、的を得たものでなければいずれ自然に落ちてゆく。逃げも隠れもできない。ぼくなのだから。ぼくをさらして全うすることしかできない。

うらをみせおもてをみせてちるもみじ  良寛

もみじは他人がどう言おうとも散ってゆく。

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2009年09月05日

夢の糧・生の糧

若いころランボーを読んで夢の糧にされた。そして今はランボーを読んで夢を糧にしている。どこが分かれ目だったのか。
“そこ”にないものはどこを探しても見つけられない。“そこ”にあるものがすべてである。他人から言われた言葉の上でなく、自らの思考の結果このことに気付く(さて、“自分”とは)。そこが分かれ目であると思考する。

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2009年08月22日

惨めな奴、間抜けな奴

見ようとしないものは見えない。見ようとするものが見える。なにが見えるかということは、なにを掴もうとしているかにかかっている。そして、運と呼ばれているものにもさまざまな種類がある。だから、ある種の運を掴もうとしている人には、別の種類の運の尻尾は見えない。掴まえられない。私はある種の運を掴んだ人を指して危なっかしいとつぶやく。その運を掴んだ人は私のつぶやきを聞いて負け惜しみをとつぶやくだろう。惨めなとつぶやくだろう。それを聞いた私は間抜けなとつぶやくだろう。
さて、モーツァルトやゴッホやランボーは運を掴んだのだろうか?彼らの見ようとしたものを見ようとする人を、どんな奴と呼ぶ?

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2009年07月25日

聞きたい話

客観的とはどういうことか。それを深く追求しなければいけない。だれかの作った理論を振り回して、これですべて説明がつくじゃないかと。そういう話は非常に面白味がない。そこには客観を装いながら主観が見え隠れする。そこにはだれかの作った理論を“信じる”話者がいる。いや、その理論は自分で検証したのだと反論する人もいるだろう。しかし、そこにも主観が含まれている。およそ理論の検証は量化したものを視覚で検証して行われる。その視覚には主観は含まれていないのか。そうした疑問がなお残る。蜃気楼、錯視ということもあるのだ。それならばむしろ、俺は自分の経験でしかものを言えないがと、主観を初めから認識して、とりとめもなく回る走馬灯のごとく話す。そういう話の方が、面白味がある。
ものを考える。そうした分野で“社会的に”定まった理論というものがあるのかないのか分からない。しかしある種の“権威”というようなものはあるだろう。はなはだ時代遅れのようではあるが、サルトルの実存主義というのも“権威”の一つだろう。さて、自分の存在を追い詰めて考えるでもなく、ただサルトルの文献を読んでそれで実存について説明しようとする人。そうした人の話を私は聞きたいとは思わない。日常の生活を送りながら、自分を“アウシュビッツ”に追い詰める。そうした人が自らの心のうちに見つけた“何ものか”。そうしたことを語りだしたとき、その話をじっくりと聞きたい。

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2009年07月11日

心理の領域

確固たる信念、考えはどこにあるか。それを揺るがすものはどこにあるか。たとえば自分の道は自分で照らすと考えても、視神経を通しての脳細胞への刺激を感知しなければ「暗い」と言葉を洩らすだろう。それでも依然として彼はまばゆいばかりに照らされている。心理とは「暗い」と言葉を洩らすそうした現象の移り変わりであり、彼の信念とか考えよりも大きな領域を振幅するものである。さらに言えば夏の日差しを容赦のない過酷なものと思い、冬の日差しをありがたい恵みと思う。脳よりも広い領域での現象の移り変わりである。それは脳や自身の身体の領域を遥かに超えている。

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2009年06月27日

見る力

見るということが単に眼球から入った光を識別して生活の要に足すということならば、その能力は眼球が受けた光刺激を脳神経に運ぶまでの性能に限定されてしまうだろう。しかし見るということを心の滋養に用いるということならば、その能力は脳神経で光刺激を処理し、“ある種のもの”を作り上げる性能を鍛えることになるはずだ。そのとき見るという能力は自分の持つ眼球が受けた光刺激を脳神経に運ぶまでの性能を凌駕することができる。
前者の性能だけが秀でた人は普通の人と見え方が違うはずだがそこでおしまい。両者の性能に秀でた人が表現を見につけて画家と呼ばれる人になる。画家の絵を鑑賞する私は後者の性能を鍛えることによってしか画家に近づくことはできない。
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2009年06月13日

滑稽なこと

無駄とはどういうことか。そこをよく考えなければ、無駄に無駄を重ねることになる。それを意味だと思い込んでいるのだから、これほど滑稽なこともそうそうなかろう。居酒屋で酔っ払いが女将に語っている自分の「英雄的な」行為のなかに、得てしてそんなにおいを嗅ぐことができる。マスコミを賑わすその種の行動も然り。
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2009年05月30日

尽きない論争と語られっぱなしの物語

見えないものを見えると思い込んで討論を開始するから、これは丸だ四角だ、これは赤だ青だと論争が尽きなくなる。見えないものをよく見定めるようと心がけて、やはり見えないと気が付く。これでは討論を開始できず物語を語ることしかできない。論争は当然起こらず、この物語は味がある、あの物語は単調だという語り方しかできなくなる。
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2009年05月16日

落ちる林檎に時はある

積み重ねというのは確かに必要なようだ。しかし、あるときこの積み重ねの結果であると感じている自分のからくり構造に気が付く。そうするとある種の解放を感じるものだ。過去の自分からも解放を感じる。いま感じている自分にすべての自分が含まれているという感じ方。それは次第に熟した実がある日突然樹から開放されて落ちるようにストンと来るものだ。
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2009年05月02日

未来の絵

あるいはそれは、花のワルツの絵かもしれない。
ゆりかごで発していた鼻歌以前のうなり声かもしれない。
だれにとっても、私にとっての「未来の絵」があるはずである。
私の宇宙はそのようにできている。

最近思い出して苦笑することがある。小学校3年生のときか4年生のときか、未来の絵を描こうというのがあった。他の児童は所謂夢のある豊かな、こんなことが実現したらいいなというような絵を描いていた。そうしたなかで私が描いた絵は所謂寒々として空虚な、宇宙の片隅で密やかに息をしていますというような絵を描いた。漠然として、声とはならずにあったが、物質的なものに対する信頼とか期待とかいうものをもてなかった。一人で空想するのが好きだった。そのような児童だったから、他人との付き合いや社会性というのは見当がつくだろう。無関心であり下手だった。しかし、空想だけでごく普通に生活できるわけではなく、物質的なものを信頼して期待して、人を求め社会に自分を求めて、そのように流されてきた。自分自身がもともとそうであったと思い込むようにして。思い込むようになった当初は自分を分析して随分苦悩したものである。あのような絵を描いた自分と決別したかった。しかし求めるものと決別して、求めぬものを求めるというのは随分無理があった。しかしながらその無理を乗り越えて世渡り、社交性というものを身に着けてきた。だが、その無理は人生の折り返しを過ぎたところで表面化した。「幸せとは」ということを問うのに、「自分とは」ということを問うことを避けられないということを思い出した。私がほんとうに興味あるのは「自分」のことだけであるということを思い出した。「自分」ということを突き詰めて考えていくと、どうも現実離れした空想めいた世界に入っていく(疑うべきを排除していってみよ、日常から見ればどうしても空想めかざるを得ないのだ)。そして物質的なことを信頼して期待して、社会や他人に興味をもって生きてきたのは、思い込みによるものだったということが分かる。児童のころを知る他人が社交性や社会性の面から私を見れば、随分性格が変わったと思うだろう。しかし自分としてみれば、子供のころの自分に世渡りと社交性が加わったというだけのことである。あの絵を描いた当時の自分が今の自分に息づいている。児童のころに還ってきた、このまま乳児に還っていくのだろうか。全く変っていないなと苦笑するのである。
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2009年04月18日

怖い目

私をさまざまな角度から分析して、分類し序列化し名前をつける。そうして、あいつはこういう奴だと思われ、おまえはこういう奴だと言われ。そういう目にさらされて、私は何一つ思うところはない。なにか思われても言われても、ただ鼻白むだけである。幼い子が私を見て、ぱっと頬が緩むかあるいは強張るか。それはある種の宣告を受けたような気持にさせる。たとえば、そういうような目。幼い子が私をじっと凝視する。そのような目にさらされることこそ、私は緊張を覚える。

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2009年04月04日

感覚今昔

風光るだの、山笑うだのと突然日常の会話の中で出てきたら(ちょっと戸惑う)。それでもなんとなく合点が行く。寒さに身震いしていたときの風は光るどころではない。風の通り道も褐色が多い。それが、今感じている風はどうだ、光っているじゃないかとか。黙って座っているだけに感じていた山が色づく。その山にそよぐ若葉。心が解放されて、自然笑みがこぼれるとか。自分から風や山に近づけばそうした感覚がちゃんとわかる。昔の人も今の人もそうした感覚は共通である。昔の人がつくったそうした言葉を今の私が理解できるのである。だけど私にとってそうした感覚はより非日常に近いし、昔の人にとってはより日常に近いものであるように思われる。それはどうしてか。恐らく、自分から風や山に近づくことを阻害する要因が増加している。風や山以上に刺激を与える「何か」に満たされている。そういうことだと思う。人が自分で消化しきれる刺激の質、量は今も昔もそう変りはないのだ。しかし刺激の質、量は変化している。消化しきれないものが与えられているのである。それを幸とする人もいるし、不幸とする人もいる。そこでおののく人もいれば、おののかない人もいる。おののいて折れる人もいれば、折れない人もいる。言い換えれば自分から感覚に近づくことを忘れた人もいるし、覚えている人もいる。そこで模索する人もいれば、模索しない人もいる。模索して前のめりに倒れる人もいれば、姿勢を保つ人もいる。そういうことだと思考する。
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2009年03月21日

夢−真実

疑って疑って疑い続けても疑い尽すことのできないもの。それを疑い続けるということは矛盾のスパイラルに陥るということ。それでもやっぱり“在る”のである。そこに存在の謎がある。それがあるからこれがある。これがあるからそれがある。そこでみているものはなになのか。胡蝶はなにをみている、みられてる。胡蝶はどこを飛んでいる。存在の謎からみた胡蝶の夢はまったくもって信実だ。
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2009年03月07日

夢みる速度

どんなに崇高な夢をみていても、いったん寒さを思い出してしまってはいけない。震える身体を押さえる手立てを下さぬ限り、夢も身震いから逃れ去ることはできない。夢みている自分に流れる血液、血流を保つための呼吸。それらも夢みる自分に与える影響からすると、身震いさせる寒さと同列だろう。すると夢みる速度は血流や呼吸の速度から逃れ去ることはできないということか。
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2009年02月21日

世捨て人

いまここでこんな文章を書いているのは誰なのか。実社会で生活しているのは誰なのか。それを意識し考えて観ているのは誰なのか。存在の謎に気付いた人は“すべて”が預かりものであるという感覚を持つはずだ。自分の中にある意識は普遍であるという感覚を持つはずだ。だから自分は世界の真ん中にいるという感覚を持ちながら、自然、思索に時間を費やし不要なものを手放すというような生活態度になってゆく。彼は全うするということの尊さを識っている。だから、ほんとうに大切な預かりものは放り出さない。そして、世間を放り出すこともない。けれども世間は彼から遠ざかってゆく。世捨て人とはそういう人のことを世間が名づけた人のことだ。
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