2010年05月29日

鏡の中に

ぼくの鏡には“ある女”が棲んでいる。ぼくの顔を横切ったり、二重写しになったり。たまにしゃしゃり出ることもあるが、大抵は気配を感じさせるだけである。ぼくに醸すものがあるとしたならば、その周辺にあるのかもしれない。

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2010年05月15日

感傷

生活するということは生きるということを消費して成り立っている。私が妻に対して恨み言めいたことを言うとしたら、煎じ詰めたところこの点に尽きる。だがそれを感傷と言われれば、反論の余地はない。さて、“私”を“男”に、“妻”を“女”に、置き換えられるだろうか。

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2010年05月08日

語り難いこと

饒舌に語れる経験というのは大概の場合ぼくの肉体を通り過ぎるだけだ。なかなか言葉に置き換えられない経験、言葉に置き換えても口にするのが気恥ずかしいような経験。そういう経験こそがぼくの肉体に棲み着いて、ときに巡り、ときに澱み、ときに燃焼し、ときに冷却している。

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2010年05月01日

息抜き

意味ありげな御託を放り散らすのも、くだらない軽口を叩くのも。それは排泄のようなものだ。排泄物は本来他人に見せるようなものではないが、ただ軽口を叩くには一緒に面白がるだれかがいたほうが具合いい。

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2010年04月24日

浮沈

“在る”という事実を考える。”在る“という事実に求める。どちらのアプローチをとるか。それは”かなしみ“へのアプローチの分水嶺だ。

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2010年04月17日

背負うということ

背負いたいという人はそうすればいい。凛々しくも苦悩に満ちたその顔に喝采くらいは送る。だけど“ほんとうに”背負うということを知る人は、大方の背負う人よりもずっと清々とした顔をしている。その“重み”がどこに由来するか。それを知っているからだ。

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2010年04月10日

ぼくはどこ

自分が好きなことに打ち込んでいるとき自分はどこにいるか。自分の気の進まないことを時間に追われてやっているとき自分はどこにいるか。いずれの場合もふと我に返ってはっとする。“いるとき”とはどういうことか。“いないとき”とはどういうことか。不思議な感覚。そして、“こうあるべきである”という自分とはどういうことか。

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2010年04月03日

逆説の構造

果たして自然のなかに意味は見つけられるか。そもそも意味とはどういうことか。そのあたりの捉え方考え方が、“逆説の構造”をどう理解するかの分岐点なのではないか。

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2010年03月20日

自己陶酔

自分は“なにか”が出来るはず。その“なにか”の高さに酔うだけのことならば、居酒屋のカウンターでやたらに人に話しかけてくだを巻いている酔っ払いと同じことだ。彼はさて、ほんとうに自分を愛するということを知っているのだろうか。その“なにか”は分からないながらも、その“高さ”に一段一段と近づくにはどうしたらよいのか。彼はそのあたりを具体的な行動にする必要がある。彼はほんとうの意味での“高さ”への到達ということに気付くはずだ。

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2010年03月13日

評価が欲しいとき

評価されれば素直に嬉しい。しかし、そこには大きな危険をはらんでいる。評価を渇望するときはどういうときか。よく点検する必要がある。

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2010年03月06日

前後不覚

血流が緩やかになれば人はめまいを覚える。血流が速くなっても人はめまいを覚える。めまいに身を任せれば酔いが回り、酔いが回れば前後を失う。人は横たわってまぶたを閉じることによっても、長い距離を走ることによっても前後不覚に陥る。人は放心しても、思考しても前後不覚に陥る。人はいとも簡単に前後不覚に陥るが、前後不覚ということを制御することがなかなか難しい。

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2010年02月27日

はずみのめまぜ

混ぜあうということ、分けあうということ、感じあうということ
それは会話、それは想像、それは創造
ぜんたいひとつのよろこび

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2010年02月20日

どうして批評を読むのだろうか

「縦3メートル、横2メートルほど。傷口でどす黒く固まったかさぶたのような色でキャンバスを覆った油絵の壁画」というのと、「黒とは言えない、赤とも言えない。その壁画に対して向かったとき、はじめは胸騒ぎのようなものを覚えるのだが、それは次第に穏やかな呼吸へと変わってゆく。」というのと。どちらを人は批評と呼ぶだろうか。人はなぜ批評を読むのか。批評とはどういう意味があるのか。

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2010年02月13日

くたびれもうけ

どんなことでも。どんなものでも。自分の口で噛み砕き、自分の胃腸で消化したものでなければ自分の血肉とはならない。どんな知識・情報でも。どんな作業。仕事でも。手にして口に運び、噛み砕く。そうした意思を働かせなければ、それはただ自分の周りを流れていくだけだ。便利な人ともてはやされて、ある種の成功は収めるだろう。しかし自分の内には何も残らない。逆に言えば。どんなにつまらないと思っても自分で口に運び、噛み砕いたなら、(無意識のうちに)胃腸を通じていくばくかは自分のものになっているはずだ。

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2010年02月06日

どこかにいそうな彼、彼女

似たような事象に対して、あるときは頬を崩しあるときは涙する。あるときは飛び跳ねて踊りまたあるときは地を蹴って怒号を上げる。支離滅裂にも思えるが彼(彼女)の行動は、確固とした一貫性によってつながっているようにも思える。そういう彼(彼女)がどこかにいるはずだと、そういうようなことは誰しもが思うことではないだろうか。

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2010年01月30日

独創はどこ?

自分のふつうをすべて通して生活するということの困難さは誰しもが経験することだろう。また世間のふつうと同じようにやろうとしても、自分はどうしてもこうなってしまうというようなことも多くの人が経験するのではないか。こうしたことをうまく表現すれば、それが独創であり、なにも突飛なもの珍奇なものを求めなくても、独創とははじめから自分の内にあるはずのものである。

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2010年01月23日

主観・客観

摂氏十度とか摂氏三十度とかというのを客観というのだろうか。寒いとか暑いとかいうのを主観というのだろうか。それならば外気温摂氏十度の状況で走ったら“暑かった”というのは主観だろうか客観だろうか。外気温摂氏三十度の状況で発熱して“寒かった”というのは主観だろうか客観だろうか。暑いと感じている、寒いと感じている自分がいる。そういう物言いは主観だろうか、客観だろうか。
青い空を見て志を新たにする人もいるはずだし、志を手放す人もいるはずだ。その心理の過程を自ら分析して語るというのは、主観だろうか、客観だろうか。
自分の“存在”を自ら語るというのは、主観だろうか、客観だろうか。


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2010年01月09日

やさしい男

ほめるところがなかなか見つからない男に対して、大抵の女は「やさしい」と言うようだ。だがそういう場合に「やさしい」と言われる男の心根には、本当の“やさしさ”とは対極をなすものがあるということは、言っている当の女が見抜いているように思う。彼には母親の目の色だけしか眼中になく、他のことに気を回せないというような、親の愛を信じることのできない幼児のような心根がある。

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2009年12月26日

愛すること、理解すること

分析するということは愛するということとは正反対の行為であるかもしれない。愛していないからこそ、さまざまに分析して人の心を読もうとする。無条件に愛しているからこそ、分析することなく人の心が理解できる。
「罪と罰」のラスコーリニコフの心を、なぜプリヘーリヤが、なぜソーニャが理解できたのか。それはプリヘーリヤが母だったからであり、ソーニャがもっと大きな意味での母の要素をもっていたからだ。そうした理解の仕方に是非は多かろうが、案外的を外してはいないものだと思う。

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2009年12月12日

濡れずに渡る

大海を船で渡るということは悧巧なことだ。だがそれに慣れきった人の相当部分は、“取り戻す”ことを忘れた人たちだ。薄っぺらい。少しの風で舞い上がりそうだ。

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