2010年11月13日

赤肉を噛みしめて

歩きながら憶えた道順や景色から、自分の頭の中に地図を作ってゆくということ。その地図を読み解いてゆくということ。
ただ歩くという自分の行為のなかに自らをゆだねて、そこで自分に起きる現象に浸るということ。その浸り加減を紡ぐということ。
日常というのはおそらく前者のような行為に包まれながら、後者のような行為がちりばめられて成り立っている。その配合割合をどの程度にするのか、気を配っているわけではあるが、建設指向に強いているときは後者のような行為はどこかに揮発してしまう。
そうしたときどういう思いでいるかというと、霜降りの肉の夢を見ながら、脂っ気の全く無いバサバサの肉を噛みしめているという思いでいるのである。

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2010年10月29日

自転車登坂

自転車で上り坂に差しかかったとき、今日は重いギアで一気に登りきってやろうと思う場合と、今日は軽いギアで楽にゆっくり登って行こうと思う場合がある。前者の場合、坂の途中から脚の筋肉の緊張が高まり、坂を登りきった後の呼吸が乱れる。しかし登りきった後の脚は意外に軽く、思ったほどには苦しくなかったなと思うことが多い。後者の場合、坂の途中も登りきった後も、呼吸が乱れることはほとんどない。しかし坂の途中から脚が次第に重い感じとなり、坂を登りきった後も案外その重さが続く。なかなか楽に坂道を登らせてはくれないなと思うことが多い。

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2010年10月01日

消費する摂取

「よく噛んで食べなさい。飲み込むだけでは栄養になりません。」とは、いみじくも伝えられてきた先人の智慧。よく噛むとは、よく食べ物を味わい、よく食べ物に感心するということ。そこで。さて摂取するのは食べ物だけだったろうか。その他に摂取するものにも同じことがあてはまるのだろうか。消費するように摂取しているものはないだろうか。そういうことがほんとうに腑に落ちたのは、私の場合後半生に入ってからのことである。

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2010年09月24日

ストール

プログラムを作成して、それを実行させる。コンピュータが恐ろしい音を立てて処理をしているようだが、なかなか結果が得られない。さてはと思ってコンピュータを強制終了してプログラムを点検すると、やはり。手続きを丹念に追っていくと、同じ手続きを無限に繰り返すループに落ち込む部分が見つかる。人間にとって意味のある手続きを記述したプログラムも、コンピュータにとっては本質的には無限ループだ。無限ループ以外の部分は修飾に過ぎない。
人間が自分で考え、それを言葉にして他人に伝えようと形にしたもの。それも修飾の部分を取り払えば本質は無限ループなのかもしれない。自分の手続きで自分を説明するという作業を少なからず含むのだから。どこが修飾でどこが本質なのか分からない。修飾を本質と思い込む。そういうのは、人間が意味を求めずにはいられない動物だからなのかもしれない。

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2010年09月18日

実験室

とんでもない人格であると思いながら、その人格をもつ人物の心象を歩く。そうするといつの間にか自分の心の中の森にたどりついていると気がつく。とんでもない人格と思った人物の先鋭化した思想の、その萌芽のようなもの、その兄弟のようなもの、そうした思想が自分の心の森の中にあると知り、ぎくりとし、ぽんと手を打つ。強烈な個性の中で思想を先鋭化して爆発させる(先鋭化して爆発しない思想や個性もあるが)。とんでもない人物だと思わせながら、その背景となる思想は案外普遍的であると気付かせる。その先鋭化させる過程を巧みに描いた小説は、一生かけて熟読するに値する。

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2010年09月12日

懐疑の視点

矛盾や不条理をぶち壊したい。そこが疑いながら見るということの出発点だった。しかし、それを進めていくと“みる”者、“みられる”者との境界が曖昧になってくる。そこでは疑うことと信じること。緊張することと弛緩すること。それらが混然となって存在している。まさに矛盾や不条理の真っただ中に置かれていることに気づく。矛盾とか不条理とか、そういう言葉を使うには案外居心地がいいのではあるが。

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2010年08月31日

故郷はどこ

自分という森のなかに棲む虫とはなにか。境界は思っている以上に曖昧なものだ―忘れた感覚。そういうことを想起させること、もの。ぼくにとっての故郷のエッセンスというべきもの。それは生まれ育った土地に行っても出会えないかもしれないし、今歩いている街中で出会えるかもしれないし。そういう類いのものだ。ここに行けば必ず故郷のエッセンスに出会えるという場所を、ぼくは特定できない。

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2010年08月26日

実りへ

これはありきたりなことと、どれだけのことを実行せずにただ埃のように堆積させてきたか。新しくて気の利いた方法を探すよりは、そのあたりを点検する方が実りが多いはずである。

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2010年08月23日

ありきたりな過程

ありきたりなことを積み上げるから、ありきたりでないところに近づくのであって、ありきたりでないことを求めても、それでは求めるだけで終わる。実行するとはそういうことだ。
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2010年08月18日

お手伝い

中学三年生の時の国語の先生。「きみたちも受験生になって、ほかの教科の先生たちは受験のためのお手伝いをしているようだけど、国語もやって欲しいか。」そうみんなに聞いた。どんなことをやるのだろうと思ったけど、受験のためならという空気がクラスにあって、先生に“お手伝い”をしてもらうことになった。先生がみんなに与えた課題は、毎日の新聞のコラムを切り抜いて、それをノートに貼って、要約と感想・意見を書いて提出し、先生が点検するというものだった。そんなことで受験に効果があるのか疑問があったということだけ憶えていて、いつごろからいつごろまで続いたかすら憶えていない。でも今では、これは国語の受験のみならず、もっと幅広く実りをもたらものだと思っている。受験の国語でいい点数を取るためだけでなく、受験が終わってもある程度の期間、若いうちに続けていればもっと“鍛錬”されたものをと、少し悔いが残る。
心がけ次第でいつからでも始められ、ずっと続けることができる。そして鍛錬のためになる。そういう方法を与えるということが、ほんとうのお手伝いということなのかも知れない。

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2010年08月12日

ぼくが溶ける

「自分は何者なのか。自分以外のなにものにもよらずに“絶対の自分”というものを定義してみよ。」そのように発語したとき、あれこれと考えて結局戻ってくるのは、「そもそもの問題を“発語したもの”が自分として最も疑わしくない。自分は“発語したもの”である。」と考えざるを得ない。さてそれでは、“発語したもの”がいなければ自分はいなかったのだろうか、それともやっぱりいたのであろうか。自分は“発語したもの”によって作られたとも考えられるし、“発語しなかった”自分がやっぱりいたのだと考えることもできる。これは自分を見る面によってどちらも正しいことに思える。そしてついには、“発語したこと”によって自分が溶解していくのがわかる。

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2010年08月05日

閉じられた棲家

完全に閉じられたと観念したのなら、見るべきものだけを見ればいい。そこにはゼロが無限になり、無限がゼロになる。1がゼロになり、ゼロが1になる。そういう世界が開かれている。そういう世界でのことなのだから、ただ風と重力に任せて舞う木の葉のように自分の有り様など心もとないものだ。そこには、そうした自分を苦笑しつつ見つめる“もの”が確かに在る。

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2010年07月22日

不要な自分

自分のできるようにしかできないということは、自分のできるようにできるということである。この簡単なことに気付くのに、ぼくは案外時間を費やした。このことに気付いたことによってしゃっちょこばった自分は不要となり、ただ全うするだけの自分が訪れた。

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2010年07月17日

秩序の力

丸も四角も三角もあわせて。たくさんの図形の角の数の平均を出したら、たとえば3.27だったとか。それでなにが見えるか、見えなくなるか。その3.27という数字でなにもかもが見えたと勘違いさせる。それが秩序を保つ力だ。

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2010年07月09日

厚顔な目

現実をあるがままに受け容れるとはどういうことか。それは現実に矛盾や不条理が含まれるというのではなく、現実そのものが矛盾であり不条理であるという認識・態度を持ち続けることではないか。それは簡単なようでいて、社会に生きる人間としては難しい。義憤に駆られて怒っている人々の脇に立ち、涼しい顔をして目の前のことに没頭したり、歓喜に沸き立ち踊り騒いでいる脇で、心ここにあらずという体で佇んだり。そうした行動をすることによって人々から受ける視線を、どこ吹く風と受け流せなければとてもできないのだから。

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2010年07月01日

登りつめた言葉

「頂まで登りつめた言葉」とはどういう言葉だろう。ぼくは今までにそうした言葉に出会ったという実感がない。ということはそうした言葉はこの世にないのかもしれないし、ぼくのものぐさゆえに出会っていないのかもしれない。あるいはぼくの無知ゆえに出会っても気付いていないのか。
ふと懐かしい香りがして心が揺さぶられた。いつまでも心に留めておきたい香り。だけどその香りが何の香りか説明できない。
どれだけの血を吸ってきたのだろうか。静かに妖しく光る日本刀の光。さっと切り付けられるというのでなく、胸に押し当てられるという感覚。
そうしたような作用をぼくにもたらした言葉というのには出会った記憶はある。もしかしたら、そうした作用をもたらした言葉が「頂まで登りつめた言葉」なのかも知れない。

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2010年06月24日

エロティシズム

どんな思いもどんな考えも、行き着くところ無限ループの一部を切り取ったに過ぎない。無意味なのだ。0にいくら0をかけても0。0にいくら0を足しても0。無意味を無意味で支えようとしても無意味であることには変わりない。
自分の思い自分の考えを自分の言葉で表そうとする。できあがった文を読み直して、どきりとする。どこかでだれかが書いた文の運び方や思い考えにそっくりだなと思う。重なったなという思い。火照りを覚える。
似たような経験をしたときは、0に0を並べて∞というのも悪くはないなと思う。

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2010年06月18日

撫でるとき

強くということは粗野であるということとはかけ離れている。やさしくということは弱腰であるということとはかけ離れている。そうした考えそうした行動に、ぼくが駆り立てられていると、それにはっきりと気が付いたならば、それはぼくが“ぼく”を置いて、ぼくのなかの“女”を意識しぼくのなかの“男”を意識したときだ。

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2010年06月12日

関係の実務

あの人はああいう人なのだから、一度は怒鳴られずして事に当たらざるを得ない。この人はこういう人なのだから、手の平をこするよう擦り寄って事に当たらざるを得ない。その人はそういう人なのだから、穏やかに話し合って事に当たれる。こんな具合に、他人との付き合いのなかで知らず知らずのうちに人を類型化している。その類型化している視点をいざ自分に向けてみると、そんなに単純じゃないぞと。そのように言いたくなるのは心情だろう。自分が類型化している他人もそんなに単純ではないということも分かっている。でも単純なことで類型化して人と接することは、実務的であるということは確かだ。

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2010年06月04日

豊穣の森

ふたつの森を行き来してそぞろ歩き。ただ息遣いを感じること。ただ空気をおいしいと感じること。なにかを捨てたから感じられるのか。ただ感じるだけだから捨てられるのか。どちらが先か、にわとりたまご。ただそうして出来たひとつの森を彷徨うときは―足の裏の神経のひとつひとつが研ぎ澄まされる―心の襞を撫でる豊穣のときであるということだけは確かなようだ。

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