気が向くと公園をぶらぶらと歩いた。
かなり広い公園の片隅に池があり、そこには白鳥がいた。
優雅に水上を滑るように見える白鳥も水中では懸命に足を動かしている。
そんなコラムを読んだのはそのころだったろうか?
(今よりも)心定まらず、将来への期待と不安が混ざっていた学生時代。
白鳥を見て力をもらった。
サン・サーンス作曲「動物の謝肉祭」のなかの「白鳥」。
静かで美しく、親しみやすいメロディ。
だれもが聴けば「この曲”白鳥”って言うんだ」というくらい有名な曲。
この曲はバレエで使われ「瀕死の白鳥」という題目で演じられる。
優雅な白鳥は死に瀕しても、
この曲「白鳥」のように静かで美しいと人が思うのは自然な心理だろうな。
死に様はその人の生き様を現すなんてよく人は言う。
コインをひっくり返してみるのも一つの方法。
どのように生きるか?
自分の生とは何か?
そんなことを考えるとき、死を意識することが多くなってきた。
そういう意味においては、
平均寿命にはまだ遠く健常な私ではあるが瀕死であると言える。
でも本当の瀕死の私はどんなもんだろうなあ?
ところで私はバレエ「瀕死の白鳥」を観たことがない。
このバレエについてちょっと調べると、
”白鳥が最期に死に行く運命に抗うようにはばたく”というようなことが書いてある。
私は静かに死を迎えるというイメージを曲から受けるので少し意外な気がする。
これはあくまでも私の趣味の話であるので気を悪くされる方がいたらごめんなさい。
瀕死の白鳥が記憶のなかで羽ばたいて水上を滑る。
よし。
そして最期に実際に白鳥が羽ばたくのはいいだろう。
だけどそれは死に行く運命に抗うのではない。
たった一回だけ。
ゆっくりと羽を上げ、ゆっくりと首を天に向かって伸ばす。
そして力と意思を込めて羽を振り下ろす。
それだけで十分。
運命を悟った白鳥は自らの意思で天に昇る。
優雅な白鳥、美しいメロディの「白鳥」にはそんな最期がふさわしい。
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羽根をパタパタさせてあげてください
もう2度と 羽ばたくことは出来ないから
せめて 消えゆく意識の中
飛び立つ自分を その魂に乗せてあげたい・・。
見苦しいぞ、うさこ。ヾ`。´ボコッ☆ よろっ・・;(笑)
往生際が悪い・・印象、
これで 少しは救われないかな・・
と、思って書いてみました。
私も羽根は パタパタさせても
せめて この位の解釈の方が
曲に合っているんじゃないかな・・と思って。
ちょっと関係ないですが・・
赤い星、すぐにわかりましたよ。
翌日、言われた通りぐるっと後ろを振り向いたら
リビングだったので(笑)
仕方ない・・と玄関を開けたら・・
「あ。あった!☆。☆ 」
と 思わず言葉に出てしまいました(笑)
そいえば 白鳥座っていうのもあるんですよネ。
瀕死の白鳥が 星になってくれていたら
もっといいですよね。
それは音楽や現実の白鳥にどんなイメージを持っているかとか、
その人の死生観であるとか、
そういうものが絡んでくるから、
一概にどんな最期がいいかなんて言えないですよね。
まあ私は一度だけ羽ばたけば、
清らかな白鳥の魂を天に送るのに十分かなと思った次第です。
かく言う私。
一人で静かに死を迎えたいと思う反面、
坂本竜馬のように最期まであがくという生き様も、な.る.ほ.ど.っと思ったりします。
矛盾していますね。
火星すぐに見つけられたでしょ。
まあ火星を見たからって別にどうってことないと思うけど。
小型の望遠鏡で見ると数メートル先のタバコの火ぐらいに見えます。
書籍などのりっぱな写真を期待して覗くとちょっと落胆だけど、
でもやっぱり自分の望遠鏡で見ると思い入れが違います。
白鳥座は夏の星座だけど、日が短くなっているので今も見えるはずです。
多分夕方の天頂あたり。
ちょっと曲がった十字架みたいな感じで。
中学のとき部活の帰りに、夏の星座を見上げながら歩いていたのを思い出します。
何十億年たって自分の意識があるなんてとても考えられないけど、
今自分を構成している物質は確実に宇宙空間を漂っている。
そして何十億年前に宇宙空間を漂っていた物質が今の自分を構成している。
私たちはどこから来て、どこに行くのでしょうね。