2005年10月31日

霧(きり)

私が通っていた高校のある田園都市の周囲は、
秋から冬にかけて毎日のように霧が発生した。
駅を降りて学校まで30〜40分ほどの道のりを歩いて通っていたが、
霧の乳白色がいつもにも増して濃いときなどはとてもうれしかった。
霧を含む冷気を深呼吸したときの独特の香りが好き。
冷んやりとしてそれでいてどこか暖かさもあり、
微妙な質感をもって肌にまとわりつくのが好き。
日光をさえぎり周囲をモノトーンにして、
心を沈静させてくれるのが好きだった。
高校生だったこともあって、
よく将来のことを考えながら歩いていたと記憶する。
将来といえば、そのはるか向こうがどうなのか見渡すことが出来ない霧は神秘的で、
この霧を通って学校に着いたら普段とは違う日常が始まるんじゃないか?なんて、
超近未来に子供っぽい想像をしながら歩いたこともあった。
もしかしたら、神秘的なところが一番好きだったのかもしれない。

地味な会社に勤める私である。
バブルのときもそれが終わるまでその恩恵に浴しているとは気づかなかった。
終わってみれば、やはりバブルはあったんだなと思う。
その後の不況と社会構造の変化を経験し、
そして今上場企業のトップのほとんどが景気回復を意識している状態になったという。
先がどうなっていくのかなかなか読めない。

五里霧中。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
バブルの最盛期のころ、私は二十代にして老後まで見通したように勘違いをしていた。
自分の会社の諸先輩を見て、三十代はこうだ・・・六十代はこうだ、老後はこうだ。
しかしその後の変化を体験した今となってはそんな絵の様な未来は信じない。
未来を信じて政治や経済で成功する人は五里霧中のなかで、
時代の潮流を読みながら一歩先を行く人なのだろう。
私にそんな能力はない。

先の見通しがつかず、自分の足元しか見えない。
そんな五里霧中のなかで高校生のときの通学を思い出す。
確実なのは自分の考えと行動だけ。
そのときの空気を深呼吸して、肌で感じて。
あまり先を考えず、自分の足元だけをみてゆっくりと進もうと。
情報があふれかえるこんな時代だからこそ、五里霧中という言葉を考えたい。
そんなことを思う。
五里夢中の人生。なんとも神秘的である。
posted by はまべせいや at 17:46| Comment(6) | TrackBack(0) | 季語に思う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは
わたしが現在住んでいるまちの霧もとても濃いものです
ちょうど一年前の深夜、窓の外の霧があまりに濃くてついつい、ふらりと外に出てしまったことがありました
うすらと街灯が霧を照らし、やはりわたしは足元しか見えずにいて
しかし、足元は見えていたのです
怖いとは思いませんでした
とても静かでした
その夜、わたしはあることを霧の中で決めました
それが現在の生活の始まりだったのですよね

なにも見えないのに、どこにでも行けそうだったのですよ
なにも見えないから、どこにでも行けそうだったのでしょうか

先日、ごく親しいひとが、わたしの生きてきた道を『なぜ』というで表現しました(否定のなぜ)

なぜその時そうしたのか
なぜその時そうしなかったのか

わたしは、いくつかの選択を当時の気持ちで、まるで他の選択肢がなかったかのように話そうとしたのですが
話そうとした瞬間に強い違和感を覚えました
わたしは『なぜ』と言われるまで、自分の選択になんらかの自信を持っていたのです
けれどわたしは、当時の気持ちもその自信も、思い出すまでは完全に忘れていたのです
わたしにとってそれはとても苦しい時間ではありましたが、とてもありがたいと思っています

昨年の霧の中でみたのと、実際に歩いている道は少し違います
けれどもわたしはまだ、昨年からずっと、霧の中にいるような気がします
全く先は見えません
なのにあるのは不安ではありません

一歩先を歩く能力を、わたしも持ってはいません

でもちゃんと、自分の足元が見えます

霧の濃くなる季節ですね
夜から朝になろうとする時間が好きです
もしかしたらまた、霧に誘われて外に出るかもしれないです
去年と違うところは、今年は寒くないよう服をちゃんと着込むであろうというところです
確か、
昨夜や今夜あたりが金星がとても大きく見えるのですよね?
雲は晴れているかしら

Posted by キュプラ at 2005年10月31日 23:11
霧には本当に心惹かれる何かがありますね。
まして深夜の霧の中を歩くとなると
そのままどこか未知の世界に吸い込まれてしまうような感覚を覚えたりして。

「なにも見えないのに、なにも見えないからどこにでも行けそう」っていう感覚は、
「うんなるほど」という感じです。

平坦で歩きやすいと思っていた道の先に崖が待っていたり、
石ころだらけのつらい上り坂の先にとても気持ちよく休める踊り場があったり。
そんなことは生きていると結構あるんじゃないかなと私は思います。
ただ確実に言えることは
自分の足元をしっかり見つめて選択した道は、
誰がなんと言おうと自分にとって最良の道であると信じて
歩んでいくしかないのではないか?
仮に間違いだと気付いても、なにかをつかんでいるはずでしょう。
私はそう思います。

ずっと晴れない霧の中を歩いて、どこに行くんでしょうね。
でもその先はきっと幸多き場所であると思います。
霧の中を歩くには意思のほかに、それなりの装備も必要ですね。
これからの季節寒くもなるし。
暖かくしてお過ごしください。

今会社の窓から西にひときわ輝く星が見えます。
多分あれが宵の明星(金星)かなと思うのですが、
朝方も西の空にひときわ輝く星が見えました。
多分あれは木星でしょう(でももしかしたら反対かもしれません)。
天球上の天体は誰にも公平に輝いてくれるんですね。
今晩はどれだけの人が宵の明星を仰ぐのでしょうね?
Posted by せいや at 2005年11月01日 18:03
こんばんは
接近してたのは火星みたいでしたね
母と話していて、勘違いにびっくり
この前に天文台に行ったときに覚えていたはずなのに恥ずかしいです
でも、金星もとても美しく輝いていますね

こちらは今夜も星が見えるようです

実家の山に隕石が落ちたと母が騒いでいました
今日は弟と山に入る予定でしたが風邪が悪化して断念しました
どんなものでも、石がとても好きです

せいやさんもあたたくしていてね
Posted by キュプラ at 2005年11月02日 18:23
あらあら、私もなんとも間抜けでした。
金星の”最大光度”という表現は聞くけど、
金星が”大きく見える”という表現は面白いなって思っていました。
今朝空を見たら
昨日の朝ひときわ輝いて見えた星の斜めはるか上方に
その星をしのぐほど明るく赤く輝いている星が見えました。
それが火星だったんですね。
火星の接近の周期は2年余の周期と数十年の周期と二つあって、
その二つが重なったときとても大きく見えるそうです。
中高生のとき火星を自分の望遠鏡で見て、
これだけしか見えないのかとちょっと残念に思ったのを思い出しました。
今見ると結構大きく見えるのかな?
駐車場で少し見るだけの星空。
今朝はちょっと時間をかけて見上げました。
もう冬の星座のオリオン座や大いぬ座なんかも見えて季節を感じました。

隕石が落ちるぐらいだから、
あわよくばさぞかし見事な火球が見られたんだろうな。
お体を大切に。

あたたくします。
ありがとう。

Posted by せいや at 2005年11月02日 20:16
とてもみごとな火球だったらしいです
夜になったばかり、という時間帯だったらしく、きれいだったそうですよ
しかし
一緒に見たはずである母と父の話が食い違っています
母は裏山に落ちたというのですが、父はもっと遠くだと言います

母の話がほんとだったらいいけど、父の話がほんとであるような気がします…

では、おやすみなさい(何度もすいません)
Posted by キュプラ at 2005年11月02日 21:39
天から降ってきた石に関しては、
ずいぶんと面白い話があるようですよ。
田んぼ仕事をしていた○兵衛さんの目の前に落ちてきたとか、
身体に当たったんだけど何かの加減で大事に至らなかったとか。
そういう話の細かいところはすっかり忘れてしまいました。

天から降ってきた石って触ったらどんな感触なんだろうな?
見つかるといいですね。
Posted by せいや at 2005年11月03日 06:21
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