2010年08月12日

ぼくが溶ける

「自分は何者なのか。自分以外のなにものにもよらずに“絶対の自分”というものを定義してみよ。」そのように発語したとき、あれこれと考えて結局戻ってくるのは、「そもそもの問題を“発語したもの”が自分として最も疑わしくない。自分は“発語したもの”である。」と考えざるを得ない。さてそれでは、“発語したもの”がいなければ自分はいなかったのだろうか、それともやっぱりいたのであろうか。自分は“発語したもの”によって作られたとも考えられるし、“発語しなかった”自分がやっぱりいたのだと考えることもできる。これは自分を見る面によってどちらも正しいことに思える。そしてついには、“発語したこと”によって自分が溶解していくのがわかる。

posted by はまべせいや at 04:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 「K氏」をたどる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。