2009年11月25日

サッチモに送られて

やたら軽快で賑やかなバンドの音の後に、これはまた陽気に突き抜けるようなサッチモの声が耳に入ったのと、文庫本が手から滑ってバサッとカウンターに落ちた音を聞いたのと、それはほとんど同時だった。先ほどまでは、確かキース・ジャレットが流れていたはずだ(なんという選曲の変わりよう)。文庫本から目を離し、目蓋を閉じて、なにか大切なことを考えていたような。それともどうでもいいようなことを空想していたような。思い出せない。そんなことは、まあ。冷め切ったコーヒーを一息に飲むと、サッチモに送られて扉を開けた。
なんという眩しさだろう。ぼくがあの喫茶店に通うのは、ゆっくりと本を読むためでもあり、ジャズを聴くためでもあり、コーヒーを飲むためでもあり。でも、扉を開けてこの眩しさを感じると、それはどうでもいいことに思えてくる。ほんとうの目的は、この眩しさを味わうためであると。そんなことを考えながら、のたのたとアパートへの道を歩く。
はて、こんなところにトンネルなどあっただろうか。でも確かに、長いともいえないトンネルの向こうに見えるのは、アパートのある見慣れた家並み。相も変わらずに、のたのたと歩を進める、あたりを気にせずただ足元だけを見て。ところがなかなか足元が明るくならない、暗くなる一方?前を見る。えっ、トンネルに入る前よりも家並みが遠くなったような。そう思いながらさらに歩を進める。最早のたのたとは言えない。ずんずんと先を急ぐ。戻ることは?などということは思いもよらない。なにかが肩を押しているような感覚。それにしても、今や家並みは闇のなか。手で壁を確認しながら、足を摺りながら。それでも、ますます前を急ぐ。
と、いきなり足の裏の感覚が無くなった。手の感覚も。宙を泳いでいた。急降下と思ったのも束の間、どちらが上か下か全く分からない。目の前に針の先ほどの光。見る見るうちに大きくなって。吸い込まれる、光へ。意識が遠ざかる。
原っぱに大の字になって横たわっていた。秘密基地の入り口近く。一匹の蝶が真昼の太陽を目指して、舞い上がっていた。少年のぼくは、大の字になったままその蝶を掴もうと手を伸ばした。どこまで手を伸ばしても、蝶は上へ上へと。もうこれ以上手を伸ばせない。そう思ったら、バサッという音とサッチモの声が同時に耳に入った。
これからぼくは、冷め切ったコーヒーを一息に飲んで、サッチモに送られて扉を開ける。

posted by はまべせいや at 04:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 黒の部屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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