2009年11月08日

競輪はお嫌?

生死を勝ち負けに置き換えるとしたら、圧倒的に生が勝ちで死が負けであるということが世間の通り相場だろう。だが厳密に考えると、ほんとうにそうなのだろうかと疑問をはさまざるを得ない。そうは言うものの、気が付いたら生きてしまっていたのである。それを全うせざるを得ない。だからとりあえず生が勝ちで死が負けであるということにして、生を全うしているというのがほんとうのところだろう。

明日生きているか死んでいるか、次の瞬間生きているか死んでいるか、それを本当に確かなこととして知ることはできない。だから私たちは生と死のくじを引き続けながら全うしているようなものだ。そういう意味で考えれば全うするということはギャンブルと言って差し支えないだろう。

どこかで『ギャンブルは大人が授業料を払って上手な負け方を覚えるためのものである』というような一文を読んだ。この一文はストンと落ちた。なるほど言葉を置き換えれば「全うするとは上手な死に方を覚えるためのものである」と、これはひとつの見識だと思う。

たまたま散歩道の近くにある競輪場。ふらっと寄って以来興味をもった。“この世的”である。当たれば勝ち、当たれば生。はずれれば負け、はずれれば死。私も“この世的”に車券を買う。

競輪の魅力はと言えば、ここでスピード感がどうだ敢闘精神がどうだとか、ラインがどうだ脚質がどうだという私の説明を読むよりは、実際の競輪場に足を運べばよく分かる。入場した競輪場で開催中ならば風になって駆け抜ける選手を実際に見ることができるし、開催中でないならばスクリーンで見ることができる。

さて、そのスクリーンである。入場した競輪場で開催していようがいまいが、発走の合間には解説者がレース展望を話している。この展望、私よりずっと競輪のことに精通している解説者には失礼なのだが、そこで語られているのは物語だ。さまざまな要素を組み合わせて、「ああいうこともある、こういうこともある。でもここはこういう可能性が最も高いのではないか。」と。もちろんきちんとしたデータや取材に基づいたもので出鱈目とは言えないが。

解説者のレース展望を当てにしようが当てにしまいが、やはり私が車券を購入するときは物語を買っているのである。こういう戦法の選手が好きだから、そういった選手が入着する物語はないだろうかとか。ここは地元の選手に是非とも勝ってもらいたいから、そういった選手が入着する物語はないだろうかとか。そういうことだ。

買うのは物語だ。100円から買える。大枚はたいて買う必要はない。財布の中の小銭で物語を買う。負ければ、束の間の夢を楽しんだことで満足すればいい。勝てば小銭が小金になる。あぶく銭は身につかないのだから、そうした小金はさっさと使ってしまうのがいい。

掛けた金に対して100%回収しているのは、ほんの一握りの人だ。物語を買って上手に負けるのが競輪だ。競輪には人間の生き様のさまざまな要素が含まれている。どんな人間模様を夢みるか。そうしたことを買うのが競輪だ。

競輪はお嫌?

posted by はまべせいや at 05:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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