2010年09月24日

ストール

プログラムを作成して、それを実行させる。コンピュータが恐ろしい音を立てて処理をしているようだが、なかなか結果が得られない。さてはと思ってコンピュータを強制終了してプログラムを点検すると、やはり。手続きを丹念に追っていくと、同じ手続きを無限に繰り返すループに落ち込む部分が見つかる。人間にとって意味のある手続きを記述したプログラムも、コンピュータにとっては本質的には無限ループだ。無限ループ以外の部分は修飾に過ぎない。
人間が自分で考え、それを言葉にして他人に伝えようと形にしたもの。それも修飾の部分を取り払えば本質は無限ループなのかもしれない。自分の手続きで自分を説明するという作業を少なからず含むのだから。どこが修飾でどこが本質なのか分からない。修飾を本質と思い込む。そういうのは、人間が意味を求めずにはいられない動物だからなのかもしれない。

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2010年09月20日

かがり火

微かではあるけれど
たしかに、たしかに燃えて灯し続ける
蚊取り線香の火のようだと
そう、ぼくはその火の燃え尽きるところを見たくて
でも、いつも朝になって燃え尽きたそれを見て
残念がっていたのだっけ
もう、子供のころのようには行かせない
きっと、それを見届けるのだと言い聞かせ
じっと眼を手向ける

最後の薪をくべたのは、いつだったっけ
いまさっきだったような気もするし
あんがい前のことだったような気もするし
ずいぶんと薪を無駄にしてきたなと気付いたのは
その前のことか後のことか
ほんとうに必要な薪は何本だろう

髪の毛を焦がし、素肌を焼くかのように
ときに背丈よりも高く舞い上がる炎を見上げて
山道を登る蒸気機関車の機関士よろしく
一心不乱に次から次へと薪を火に放り込んで
それでも吹く風に降る雨に
火が消えはしないかという思いを払拭できなかった

そう、ぼくはこう言いつかったのだっけ
この火を切らさぬように
見届けるために
大切に
この薪を使うのだよと

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2010年09月18日

実験室

とんでもない人格であると思いながら、その人格をもつ人物の心象を歩く。そうするといつの間にか自分の心の中の森にたどりついていると気がつく。とんでもない人格と思った人物の先鋭化した思想の、その萌芽のようなもの、その兄弟のようなもの、そうした思想が自分の心の森の中にあると知り、ぎくりとし、ぽんと手を打つ。強烈な個性の中で思想を先鋭化して爆発させる(先鋭化して爆発しない思想や個性もあるが)。とんでもない人物だと思わせながら、その背景となる思想は案外普遍的であると気付かせる。その先鋭化させる過程を巧みに描いた小説は、一生かけて熟読するに値する。

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2010年09月14日

黒の法話

学生の時の夏休み。ぼくの友達の遠い親戚に寺の住職だという人がいた。かなりの高齢で境内に繁茂した雑草を刈るのに難儀していたということだった。そこでぼくの友達に草刈りを手伝ってくれと白羽の矢が立ったらしいのだが、あいにく友達はすでに夏休み中のアルバイトが決まっていて行けなくて、ぼくになんとかならないかということで話が回ってきた。「なにちょっと草刈りして、煮炊きを手伝って、あとは文庫本でも持ちながらその辺の山の中を散策してればいいさ。おまえ最近仏教の本なんか読んで興味があるんだろう。法話みたいなものを聞かせてくれるよう頼んでやるよ。」という話だった。どうせぐうたらと何もせずに無為に過ごすよりは、体を動かして法話でも聞ければましかもしれないなと思ってその話に乗ることにした。
“法話”以外の寺での時間は友達の話の通りだった。適当に寺の仕事の手伝いをして、後は山の中を散策して。きままな時間が多かった。“法話”は4時から6時までの2時間、その寺にいた毎朝行われた。
“法話”の一日目。開口一番住職はこう言った。「きみは仏教に興味を持っていて法話を聞きたいということで承っています。でも私は法話はできません。その代わりにきみにこれから毎朝“体験”をしていただきます。」そういうことだった。「ここに仏像があります。この仏像を手本にして、きみに仏像を彫っていただきます。」そう言うと住職は直径10センチほどの丸太と大ぶりなノミを差し出した。そして手本だという仏像を指差した。こちらは直径30センチはありそうな丸太をナタか何かでガンガンガンと切り出したような仏像が立っていた。さてそれが本当に円空の作かどうか分からないが、今なら円空の作に似た仏像だと一言で言える像だった。それきり住職はその仏像の方に向いて座禅を組み瞑想にふける風合いだった。
“法話”の二日目。「さて像は彫れましたかな。なるほど。ふむふむ。」。こちらを彫ればあちらが彫りすぎだったというように、慣れぬ手つきで彫った仏像は失敗を矯正するために直径3センチくらいになっていて、しかも不格好で未完成。なんとか顔に目鼻があり、肩がここだと分かるような代物だった。住職は像の出来には何も触れずにこう言った「それではこの像をこの桶の染料につけて、まんべんなく表面に行き渡らせたら桶から出してください。乾いたようならまた桶につけて。それを繰り返してください。」それきりまた住職は“円空作”の仏像の方に向いて座禅を組み瞑想にふける風合いになった。
“法話”の三日目。「なるほど。藍色に染まりましたね。ふむふむ。それではこの像をこの朱で塗ってください。乾いては塗り乾いては塗り。一面を朱にするのです。」それきりまた住職は瞑想にふける風合いになった。
“法話”の四日目。「なるほど。一面朱色ですね。これは墨をにかわで溶いたものです。それではこの像を一面墨で塗ってください。」それきりまた住職は瞑想にふける風合いになった。
“法話”の五日目。「なるほど。墨で塗りつぶされて真黒です。」そういうと住職は自分と僕との間にその像を置いた。「どうか楽な格好で。この像をじっと見つめるのです。」それきり住職は僕の作った像を見つめて座禅を組み瞑想にふける風合いになった。夏のことで、外はもう明るくなっていた。しかし庫裡のなかには日差しが届かず明かりもなかった。ほの暗い庫裡に置かれた僕の像。ときにその薄暗がりに吸い込まれ、ときにその薄暗がりに抗しているようにも見えた。「黒。の語るもの・・・。なに。」そんなことが心に浮かんできた瞬間、「かぁつ。その像を後ろに投げよ。きみがこの山門をくぐったときに持っていたものだけをまとめて帰るがよい。手伝い御苦労。楽しい体験じゃったぞい。」住職は叫んだ。それきり住職は唖然として荷物をまとめる僕を背に再び瞑想にふける風合いになった。

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2010年09月12日

懐疑の視点

矛盾や不条理をぶち壊したい。そこが疑いながら見るということの出発点だった。しかし、それを進めていくと“みる”者、“みられる”者との境界が曖昧になってくる。そこでは疑うことと信じること。緊張することと弛緩すること。それらが混然となって存在している。まさに矛盾や不条理の真っただ中に置かれていることに気づく。矛盾とか不条理とか、そういう言葉を使うには案外居心地がいいのではあるが。

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2010年09月06日

お預かりいたします

商売で販売代金を受け取って、「お預かりいたします。」と発する。商売の金なのだから自分のポケットに入れることはできない。でも、お金が回りまわっているのだなということを肌で感じる。これが実に清々しい。いっそのこと何でも「お預かりいたします。」ということにしてみると、人生が非常に清々しいものになると思う。

プレゼントをもらった。    「お預かりいたします。」
給料をもらった。       「お預かりいたします。」
注文していたものが届いた。  「お預かりいたします。」
渡した方は、面食らうかな。

就職した。          「お預かりいたします。」
子供が生まれた。       「お預かりいたします。」
自分がいる。         「お預かりいたします。」
さて、自分を預かるとはどういうことになるのかな。自分を猫ババするとはどういうことになるのかな。

posted by はまべせいや at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 黒の部屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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