2009年11月30日

紡がれる“もの”

カラカラカラとどこからともなく
軽く乾いているとも、哀調を帯びてしっとりしているとも
どちらともとれる不思議な音に誘われて
ふと訪れたその村の、工芸記念館に足を踏み入れていた
真っ黒なタールが塗られた木の床の
六畳ほどに区切られた部屋の片隅の
西日の洩れるすりガラスの前に
ぽつねんと置かれていた糸車、ただ佇んで
誘った音がいつの間にか収束したその部屋に
床のぎしぎしいう音と、息遣いだけが妙に響いて
はずみ車を規則的に回す腕と、繊維を導く細やかな指とが
―――紡いでいた
一本の糸となって―――巻き取られる
それは遠い記憶、それは遥かな行く末
あるいは今しも直面した現実
折からの光に茜に輝く紡錘は
祖母や母や娘や孫娘や
(変わったのはなに、変わらないのはなに)
“彼女”のつぶやきをカラカラカラと
今こそ確かに耳にしているのだった

posted by はまべせいや at 04:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 疑問のウラガワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月28日

摩滅のとき

隙間をただ覗き続けるということは、簡単なようでいてなかなか難しいことだ。人はその隙間があるということに、耐えることができない。だから他のところを見ながらたまにチラッと隙間を遠めに見たり、普段は他の場所にいながら通り抜けざまに隙間を覗き込んだり、そうするように仕方がない。その隙間を埋めるためのステップを具体的な形で設計し、それを実行できる気概があるときに、はじめて人は隙間を覗き続けることができる。ただ、隙間に見入られるということがままある。見入られたが最後、その隙間の深淵を凝視せざるを得なくなる。深淵に持っていかれそうなものをなんとか掴もうと手を伸ばすが掴めない。この、かなりの忍耐に人は摩滅してゆく。
さて、ここで疑問がひとつ。隙間に見入られるとはどういうことか?見入られる人には、特別な資質というようなものがあるのかどうか?

posted by はまべせいや at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 「K氏」をたどる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月25日

サッチモに送られて

やたら軽快で賑やかなバンドの音の後に、これはまた陽気に突き抜けるようなサッチモの声が耳に入ったのと、文庫本が手から滑ってバサッとカウンターに落ちた音を聞いたのと、それはほとんど同時だった。先ほどまでは、確かキース・ジャレットが流れていたはずだ(なんという選曲の変わりよう)。文庫本から目を離し、目蓋を閉じて、なにか大切なことを考えていたような。それともどうでもいいようなことを空想していたような。思い出せない。そんなことは、まあ。冷め切ったコーヒーを一息に飲むと、サッチモに送られて扉を開けた。
なんという眩しさだろう。ぼくがあの喫茶店に通うのは、ゆっくりと本を読むためでもあり、ジャズを聴くためでもあり、コーヒーを飲むためでもあり。でも、扉を開けてこの眩しさを感じると、それはどうでもいいことに思えてくる。ほんとうの目的は、この眩しさを味わうためであると。そんなことを考えながら、のたのたとアパートへの道を歩く。
はて、こんなところにトンネルなどあっただろうか。でも確かに、長いともいえないトンネルの向こうに見えるのは、アパートのある見慣れた家並み。相も変わらずに、のたのたと歩を進める、あたりを気にせずただ足元だけを見て。ところがなかなか足元が明るくならない、暗くなる一方?前を見る。えっ、トンネルに入る前よりも家並みが遠くなったような。そう思いながらさらに歩を進める。最早のたのたとは言えない。ずんずんと先を急ぐ。戻ることは?などということは思いもよらない。なにかが肩を押しているような感覚。それにしても、今や家並みは闇のなか。手で壁を確認しながら、足を摺りながら。それでも、ますます前を急ぐ。
と、いきなり足の裏の感覚が無くなった。手の感覚も。宙を泳いでいた。急降下と思ったのも束の間、どちらが上か下か全く分からない。目の前に針の先ほどの光。見る見るうちに大きくなって。吸い込まれる、光へ。意識が遠ざかる。
原っぱに大の字になって横たわっていた。秘密基地の入り口近く。一匹の蝶が真昼の太陽を目指して、舞い上がっていた。少年のぼくは、大の字になったままその蝶を掴もうと手を伸ばした。どこまで手を伸ばしても、蝶は上へ上へと。もうこれ以上手を伸ばせない。そう思ったら、バサッという音とサッチモの声が同時に耳に入った。
これからぼくは、冷め切ったコーヒーを一息に飲んで、サッチモに送られて扉を開ける。

posted by はまべせいや at 04:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 黒の部屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月23日

有無の、あ・い・だ

ねえ、満たされている
それとも、満たされていない
ひかりに
満たされるって、どういうこと

ねえ、満たされている
それとも、満たされていない
うるおいに
満たされるって、どういうこと

ねえ、満たされている
それとも、満たされていない
大気に
ただ横たわる
無力な意識だったあのころ
どんな感じを抱いてた

切っても切っても切れないもの
どんなもの
結んで開いて
どちらでも手にできる
どちらでも手にできない

posted by はまべせいや at 04:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 疑問のウラガワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月21日

「紅梅白梅図掛軸」速水御舟

ねえ、通すってどういうこと
生まれたてのお月さま
お話しているよ、梅の木と
なお一層高みを目指して
梅の香りが漂いだした

posted by はまべせいや at 04:31| Comment(0) | TrackBack(0) | ”きみ”とのちいさなものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月18日

ゆめはいつまで?

「このノートがすべてを語っているんだ。」
「このノートの文字は全てお前のものだな。」
「筆跡鑑定で明らかだ。」
立て続けにそう言われて仕方なく私はうなずいた。
「認めるんだな。」
「しからばお前の罪は明白だ。」
「お前を虚無罪で起訴する。」
そう言われて私はたまらなく机に突っ伏して思い切り頭をぶつけた。
起訴されたということよりも衝撃だったのは、自分のノートが白日の下に曝されていたということ、自分のノートと特定されたこと、そして何よりも“虚無罪”なるものがあるということ。
思い切り頭をぶつけたところで私は目を覚ました。
「ゆめはいつまで?」という、ただそれだけの匿名メールを受信した明くる朝のことだった。

posted by はまべせいや at 04:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 黒の部屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月16日

祖父の工房

彫り当てるのだと、ぼくは聞いた
はじめはおぼろげながらに形が見えて
彫っている間に確かな形が瞬く間に見えたと、ぼくは聞いた
なるほど工房―といっても小さな離れだが―から
はじめは鉈を振るう音、次に鋸で挽く音
その次にはのみを木槌で小突く音が聞こえた

祖父は工房にぼくを寄せ付けなかった
祖父が動き出す、後を追いかける
散歩のときはぼくがついてくるがまま
気ままに先を歩いていた
でも工房に入るときは振り返る
そしてキッと厳しい目でぼくを見るのだった
そんなことが二度三度
ぼくは工房に入ることを諦めた

祖父が亡くなったのはあっという間だった
ぼくが学校に出かける前、一緒に朝餉を食べたというのに
学校から帰ったら、もう慌しく通夜の準備をしていた
心筋梗塞と、大人は言ってた

葬式の日のこと、その日のことで一番覚えているのは
小柄な祖父には似つかわしくない大きな棺おけ
祖父と並んで像が横たわっていた
手はあたかもグローブを嵌めているように見えるほど未完成だった

だけどぼくには見えたのだ
今のぼくならこう言うだろう
聖母像とも菩薩像とも、ヴィーナス像とも土偶ともつかない
なんとも不思議な像だけど
確かに確かに柔和で穏やかで香りがあった

そのときのぼくはこう思った
きめ細かに掘り込まれた祖父の顔
夕餉の準備時に母を煩わせてべそをかいている
そんなぼくに囲炉裏端でそっと飴玉を出してくれた
祖父の笑顔

posted by はまべせいや at 04:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 疑問のウラガワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月14日

現実は努力?

頭を叩かれて痛いと思う自分とか、欲求が満たされなくて良からぬことを思いついたり、立て直そうと思ったりする自分とか。そういう自分を現実のものとして捉えるならば、『困難は現実の同義語であり、現実は努力の同義語である』という言葉は、真実味を帯びてくる。
だが痛いと思ったり、良からぬことを思いついたり、立て直そうと思ったり、そうした自分を疑って疑い尽くして考えていったとき、“自由は現実の同義語であり、現実は思考の同義語である”とでもいうようなことに思い当たる。
思考するということによって垂直に離陸して、千メートル、二千メートルはおろか、何光年、何億光年と上昇することができるのだ。なんという自由だろうか。
しかしまた一方で、この自由を不自由に縛り付けていなければいけないという現実にも直面する。やはり現実はある意味で努力でもあるというところに帰り着く。
全うするとは、そのあたりの配合具合のことを言うのではなかろうか。

posted by はまべせいや at 04:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 「K氏」をたどる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月11日

光へ

ゼロ掛けるゼロはゼロだ。だがいつの間にかゼロ掛けるゼロは1とか2とか100とか1000とか、あるいは無限とか。そう思い込んでしまう。それはもちろん思い違いだ。だがこのゼロを集合の中からたったひとつ取り出したとき、それは1の重みをもつ、無限の重みをもつ。片面に光が当たったコイン。光の当たらない側から光の当たる側に通り抜ける。そう難しいことではない。さて陰は、光は、ゼロなのか1なのか無限なのか?

posted by はまべせいや at 04:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 黒の部屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

音もなく、“それ”は降り続けていた

いつの間にか彷徨っていた
丘もない谷もない、森もない泉もない
不毛の大地
昼は照りつける太陽から逃れる術もなく
夜は凍える大地に身を寄せて
渇いていた、ぜんたいに

風が吹いたのは昨晩のこと
<どれくらいの間、吹かなかったろうか>
まともに受けて、寒さと痛みに耐え忍んだ
風が運んでいった霞の向こうに太陽が、夜明け
―大地を照らし始めた

遥か遠い記憶の彼方にあったもの
輝く丘に寄り添って
暗い谷に横たわり
ささやく森に踊り歌い
湧き出す泉に渇きを癒し

音もなく降り続け
気付かぬうちに不毛の大地を彷徨わせていた
霞が地平線の彼方、遠ざかる

posted by はまべせいや at 04:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 疑問のウラガワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月08日

競輪はお嫌?

生死を勝ち負けに置き換えるとしたら、圧倒的に生が勝ちで死が負けであるということが世間の通り相場だろう。だが厳密に考えると、ほんとうにそうなのだろうかと疑問をはさまざるを得ない。そうは言うものの、気が付いたら生きてしまっていたのである。それを全うせざるを得ない。だからとりあえず生が勝ちで死が負けであるということにして、生を全うしているというのがほんとうのところだろう。

明日生きているか死んでいるか、次の瞬間生きているか死んでいるか、それを本当に確かなこととして知ることはできない。だから私たちは生と死のくじを引き続けながら全うしているようなものだ。そういう意味で考えれば全うするということはギャンブルと言って差し支えないだろう。

どこかで『ギャンブルは大人が授業料を払って上手な負け方を覚えるためのものである』というような一文を読んだ。この一文はストンと落ちた。なるほど言葉を置き換えれば「全うするとは上手な死に方を覚えるためのものである」と、これはひとつの見識だと思う。

たまたま散歩道の近くにある競輪場。ふらっと寄って以来興味をもった。“この世的”である。当たれば勝ち、当たれば生。はずれれば負け、はずれれば死。私も“この世的”に車券を買う。

競輪の魅力はと言えば、ここでスピード感がどうだ敢闘精神がどうだとか、ラインがどうだ脚質がどうだという私の説明を読むよりは、実際の競輪場に足を運べばよく分かる。入場した競輪場で開催中ならば風になって駆け抜ける選手を実際に見ることができるし、開催中でないならばスクリーンで見ることができる。

さて、そのスクリーンである。入場した競輪場で開催していようがいまいが、発走の合間には解説者がレース展望を話している。この展望、私よりずっと競輪のことに精通している解説者には失礼なのだが、そこで語られているのは物語だ。さまざまな要素を組み合わせて、「ああいうこともある、こういうこともある。でもここはこういう可能性が最も高いのではないか。」と。もちろんきちんとしたデータや取材に基づいたもので出鱈目とは言えないが。

解説者のレース展望を当てにしようが当てにしまいが、やはり私が車券を購入するときは物語を買っているのである。こういう戦法の選手が好きだから、そういった選手が入着する物語はないだろうかとか。ここは地元の選手に是非とも勝ってもらいたいから、そういった選手が入着する物語はないだろうかとか。そういうことだ。

買うのは物語だ。100円から買える。大枚はたいて買う必要はない。財布の中の小銭で物語を買う。負ければ、束の間の夢を楽しんだことで満足すればいい。勝てば小銭が小金になる。あぶく銭は身につかないのだから、そうした小金はさっさと使ってしまうのがいい。

掛けた金に対して100%回収しているのは、ほんの一握りの人だ。物語を買って上手に負けるのが競輪だ。競輪には人間の生き様のさまざまな要素が含まれている。どんな人間模様を夢みるか。そうしたことを買うのが競輪だ。

競輪はお嫌?

posted by はまべせいや at 05:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月07日

不思議坂

行きは平坦なのに帰りは確かに下り坂
行きのペダルも軽いけど帰りは一気に加速する
坂の途中の木の陰で小僧がそっとささやくよ
行きはどんどん狭くなれ帰りはどんどん広くなれ
声はすれども姿は見えず小僧の声との因果やいかに

posted by はまべせいや at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | ”きみ”とのちいさなものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月04日

誰かが見ている

誰かが見ている。その誰かは誰か?それは全く分からない。だけどその誰かを想定することはできる。どんなキャラクターなのか?いや人間でいいのだろうか?何かを望んでいるのか?監視しているのか?その誰かをどのように想定するか。これは案外大切なことだ。

posted by はまべせいや at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 黒の部屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月02日

焦げて焦がれて

忘れられないらんちゃんは、焦げて焦がれて真っ黒くろ
思い出にするりんちゃんは、熟れて熟して真っ赤か
すぐ放り出するんちゃんは、堅く結んで真っ青さお

posted by はまべせいや at 04:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 疑問のウラガワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。