2009年10月31日

言葉で理解する人とは

たとえば「神はきみと切り離しては存在しない。」そんなことを唐突に言ったとする。どんな答えが返ってくるか?「なにを馬鹿なことを言っているんだ。」「僕は特別じゃない。」「だれにでもそういうことを言うとしたら汎神論だね。」「自分自身に向かっても言うのだとしたら、君は自分が神だとでも言うのかね。」「神を冒涜するものじゃないかね。」「神なんているわけないじゃないか。」「そんな宗教めいた考えは弱い人間の逃げ場所だ。」・・・等々。十中八九は否定するような答えが返ってくることが予想される。
このことを言葉で説明して理解してもらうことは限りなく不可能に近いであろうことも予想される。ほんとうの宗教観とは“個人的な思考”に基づくものであると。このことに思いが至らない人にはいくら言葉を重ねても理解してもらえないだろう。一言聞いて「ああ、なるほどそうだね。」という人はわたしと宗教観について共有する人だろう。また先の言葉に続いて、わたしがその人の考えを引き出すようにして話を重ねて「分かったよ。」という人は、やはりはじめから私と宗教観についてある程度共有していた人なのである。
ほんとうに大切なことは、すべてを他人に言葉で説明することはできない。個人個人で自らたどり着くしかないのである。説明で理解する人は、自ら考えた人なのである。

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2009年10月28日

一人と一匹

子供のころ住んでいた母の実家は家業を営んでおり、一階が店で二階が居間のような形になっていた。外から帰ってきて居間で一人で夕食を食べ、午後8時になると皆がいる一階に下りていくというのが日課だった。
実は一人というのは少々正確性に欠くかもしれない。当時実家には犬がいた。だから正確を期すには一人と一匹と言うべきかもしれない。とは言えその犬は午後8時まで一人でいるという寂しさを紛らわしてくれるという存在ではなかった。子供のことゆえあまりにもしつこく触りまくるし、実家の中で一番年少だった私を馬鹿にしてもいたのだろう。私が近づくと唸り声を上げて、4本足のテレビの下に潜り込んでしまうのだった。だから、一人でいたのと全く同然だったのである。
午後8時を過ぎると部屋の明かりを消して、商いの片付けを始めた家族のいる一階に下りていく。するとである、今までテレビの下に潜り込んでいた犬が飛び出して抱っこをねだるのである。子供ながらにその豹変振りには呆れたものである。まったく、こういうときだけ。ある日などは犬を置いて階段の一番下まで下りたのだが、それでも犬が階段の一番上で足をカチカチと踏み鳴らしながらクゥーンなどと声をあげているのを聞くと、迎えに行かざるを得ない気分になってしまう。
犬を抱いて階段を下りるとき、胸は温かだった。この時だけは一人で二階にいたわけではないのだなと、そう毎日思うのだった。

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2009年10月26日

輪唱の花園

あんなにも簡単にたどり着けたのだった
開け放たれた窓から入る冷たい空気に目覚めた初夏の朝
白みかかってきた空にはまだ明けの明星がぽっつりと
その光の消える時間を惜しむかのように
ふらふらとつっかけを履いて裏の森へと歩いていた
森の下草がこちらこちらと道を開けてくれていた
その誘いのままに奥へ奥へと
突然広がったのは可憐な花が一面に咲く花園
ぼくのひざ小僧ほどの高さ
真っ白な花が釣鐘のようにぶら下がっている
沢蟹が揺れて光るのがよく見える
そんな水が身体を通り抜けていくような香り
ぼくは蝶になったのか
足で踏み倒すことなくその花の上を歩いていた
るらぁぁぁ
思わずぼくは声をあげた
すると花という花が一斉に
るらぁぁぁ、るらぁぁぁ
輪唱となって花園を包み込んだ
そのままゆるゆると足元の花が次第に小さく見えてきて
るらぁぁぁの輪唱はますます強く包み込み
意識が遠のいていった

濡れ縁にぽつりと座っていた
つっかけを履いて冷気に包まれて
明けの明星は青い空に今しも飲み込まれそう
裏の森の下草は分け入るのを拒むように生い茂っていた

ただの一度だけたどり着けた花園
あれは夢だったのかと思いながら朝の喧騒に包まれていった
それ以来ぼくはいわゆる大人になったのだった

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2009年10月24日

「月の光」作品85の2/ブラームス

冷気とともに染み込んだ
きみのひかりの温もりは
芯からゆっくり広がって
ただそれを抱いて歩むということ
そのよろこびに満たしてくれる

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2009年10月21日

迷惑メール

ネット生活もいくらか続けば、迷惑メールの洗礼には慣れたもの。一目で“それ”と分かるもの、なかなか巧妙に誘って読ませようというもの。全部まとめてゴミ箱へ。それでも時々、なんだこれはというようなメールに出くわす。
それは「みているのはだれ?」件名にただそれだけ。本文も添付ファイルもない。フリーアドレス発で差出人にはただ「K」とばかり。
すぐに消したのであるが。なにやら引っ掛かるものを感じる。このメールを目にして以来、日々の生活のなかで「だれかに見られてやしないか?」「だれかを観察するような行為ではないか?」などという感覚がふと心にもたげるようになった。

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2009年10月19日

根雪の解けたころ

幾人かの同級生はもう次の住処へと旅立っていた。学生気分にまだ浸っていたかったぼくはメランコリックな気持を胸にアパートを出た。最後の自炊用食材の買出し。ぼくもいつまでも名残を惜しんでばかりもいられない。学生になることがなかったら決して住むことのなかったこの街。秋から冬にかけてどんよりと低い雲が垂れ込んで、この季節中まともに太陽を見たという記憶が少ない。雪が降り積もって道路のどこを歩けばよいのやら、一冬中溶けやしない。いく冬かを過ごしてようやく雪国の冬に慣れてきた―最初の冬のは、軽いうつだろうな―そのぼくの視線が捉えたのは、昨日までよりも明らかに小さくなった根雪の塊り、雪どけ水の流れ、そして黒々と映っているぼくの影。えっ、黒い影?思わず振り向いたら、くっきりとした丸い太陽。「エクスルターテ・ユビラーテ」この歌が天に響いたような気がした。野も山も輝いて踊り喜ぶ季節の幕が落とされたのをぞくっと感じた。春の訪れというのはなんという作用をもたらすのだろう。足取りが軽くなった。

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2009年10月18日

いぬはいぬ?

秋の日差しが心地よく、朦朧たる心身をほぐしてく。

いぬって、なんでいるのにいぬなのだろう?

こんなときこそよく分かる、いぬは人間よりもほんとうのことをよく識っているからだと。

このまま秋の大気のなかに分散してゆくゆめをみる。
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2009年10月17日

告白

告白するという行為はある種愚直な思いがあるからするのだろう。ある種感動が含まれるのは事実であるが、それを聞く者ははらはらどきどきし、驚き呆れ、羞恥心すら感じさせることがある。聞く者にこうした影響を与えない告白というのは、愚直な思いというところからは外れている。
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2009年10月14日

中心であるということ

中心であるということと、中心にいるということは違う。自分の力で離れれば離れるほどそこにあるということに近づく。そういうものだ。
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2009年10月12日

“ある”風景

カミキリムシが穴を開け
幾匹も幾匹もが飛んでった
キノコを群生させて
幾秋が過ぎてった
けものが踏み越え、踏み荒らし
風が吹くたび形を崩し
この間の大風で形を失った

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2009年10月10日

止まり木

囀る場所でも、吼える場所でもなく
拾う場所でも、置いてゆく場所でもなく
ぼくにとっての止まり木は
ためをつくる場所、風穴を開ける場所
沈降する場所、飛翔する場所

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2009年10月07日

無限ループ

入り組んだ路地裏。通り抜けられると思ったら通り抜けられなかったり、絶体絶命の突き当たりかと思ったら通り抜けられたり。いずれにしても道なりに歩くしか術はない。

―このように思考の細部に行くにしたがって、通るべき道は定められてしまうものなのか。あるいは道は広がってゆくものなのだろうか―

こうした路地を歩いているといつしか方向感覚が失われて、このままずっと路地裏を歩き続けて、見失った大通りに出られなくなるのではないか。そんな思いに駆られる。
プログラムの開発をしていたときを思い出す。プログラムにミスがあったり、想定しなかったデータが流れ込んだり(これも広い意味でのプログラムミスであるが)、そういうことがあるとプログラム上の一連の手続きの一部分を永遠に繰り返すという、無限ループ状態に陥ってしまうということを幾度か経験した。この状態に陥ってしまったコンピュータは自ら解決する術をもたない。そんなことを思いながら歩いているうちに、路地裏を抜け出して見知った風景が眼前に開けるのであるが。

思考が無限のループに落ち込んでいくのを感じることがある。それでもショートすることなく生活し、解決している。その解決は解消、脱出、継続、あるいはもっと別のものなのか。それは分からないのであるが。自ら無限ループ状態を解決できる脳というのは、コンピュータよりもやわらかさ、しなやかさをもっているなと、そういうことを思う。

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2009年10月05日

ぼくの海

その海を探して歩くのに
特別に素晴らしい靴を、ぼくは要らない
ただ足の裏の感覚を頼りにして
考えのままに歩いてゆけばよいのだから
ぼくの素足の感覚を磨いてくれたのは、だれ?
ひざしの香り、ささやきあう波頭
狭いのに広い、浮かびながら沈む
“こ・と・の・は“が語りかけるその海に
素足で飛び込む

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2009年10月03日

切れ味のよい理論

切れ味のよい理論というものは、いわば両刃の剣だ。他人を切ったその剣で、自分も必ず切り返される。そうした理論は、“自分”を“俯瞰”するとき以外に使うと大怪我をする。

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